元史卷百四十二 列傳第二十九 納琳

地方官としての善政

  • 納琳、智曜の孫、睿の子。大徳六年(1302年)丞相哈喇哈斯達爾罕の推薦で宿衛に入り、中書舎人、宗正府郎中、監察御史などを歴任。仁宗の怒りを買った際は中丞多爾濟の弁護で救われた。
  • 河南行省郎中、都漕運使、湖南湖北両道廉訪使、杭州路総管、江西廉訪使を歴任。南昌の飢饉では朝廷の許可を待たず私財を投じて粟を出し民を救った。平章政事巴克実呼図克の不法を弾劾して罷免するなど、風紀の粛正に努めた。
  • 至正二年(1342年)行宣政院使として僧の不法を厳しく取り締まり、江浙・河南行省平章政事、中書平章政事、江南行臺御史大夫、御史大夫を歴任し、老齢を理由に致仕を願うも許されず太尉を加えられた。

江南防衛の指揮

  • 至正十二年(1352年)江淮で盗賊が蜂起すると、南台御史大夫として再起し太尉を兼ね江浙・江西・湖廣三省の軍馬を総制。集慶の城郭を修築し、杭州が陥落すると援軍要請を退けて宣城救援を優先させ、大破して州を安定させた。
  • 徽州・広徳・常州・宜興・溧水・溧陽など各地が陥落する中、湖廣行省平章政事額森特穆爾の援軍を得て秣陵で賊を破り、上元・江寧の境を回復。溧陽・溧水の賊を追撃し敗走させ、州郡は悉く平定された。
  • 十三年(1353年)固く辞して退居慶元。十六年(1356年)九月、江南行台が紹興に移されると再び御史大夫兼太尉として起用され、十九年(1359年)海道より直沽に赴く途中、山東の俞宝に糧道を断たれたが子の昻阿らと共に戦って撃破。京師に至って皇帝から上尊酒を、皇太子から酒脯を賜ったが感疾し通州で没した。享年七十九。