元史卷百四十二 列傳第二十九 徹爾特穆爾

風紀を正した御史

  • 徹爾特穆爾、阿嚕威氏の出。宿衛から中書直省舎人、監察御史となり、右丞相特們德爾の専横を弾劾。山東転運司副使として塩課の不足を補い、刑部尚書として京師の豪右を畏怖させた。天暦二年(1329年)中書右丞、まもなく中書平章政事、河南行省平章政事。
  • 黄河が澄んだことを瑞祥と奏請する声に対し「忠孝と治世が本義であり瑞など無益」と述べ、大飢饉には手続きを待たず独断で大発倉して民を賑わせた。至順元年(1330年)雲南布呼の乱を鎮圧し、軍紀を厳格に保ち私財を分与しない廉潔さで知られた。
  • 至元元年(1335年)中書平章政事として科挙廃止を主導し、太廟四祭を一祭に減らそうとして監察御史吕思誠らの弾劾を受けたが帝は許さず、なお職務を続けた。太師巴延との科挙論争では参政許有壬と激しく応酬し、徹爾特穆爾は「科挙の存廃は選法との比較の問題」という立場を取り、最終的に許有壬の面目を潰す事態にも関与した。
  • かつて武宗を「那壁(彼)」と呼んで指斥したことや、妻の妹の娘を自分の娘と偽って珠袍を請うたことなどが問題視され、台臣の弾劾と巴延の忌避により南安に貶謫され、その地で没した。至正二十三年(1363年)監察御史額森特穆爾らがその罪を弁明し追封の議があったが実現しなかった。