出自と初期の経歴
- 台哈布哈は鴻吉哩氏(弘吉剌氏)の出で、代々外戚として最も貴顕の家柄であった。人柄は沈着重厚で度量が大きかった。
- 名門の子弟として出仕し、雲南行省右丞・通政使・上都留守・遼陽行省平章政事を歴任した。
- 至正八年(1348年)、丞相太平が台哈布哈を「大用に足る」として推薦し、召されて中書平章政事となった。
- 翌年、太平が罷免され托克托が復相すると、台哈布哈は托克托に与して太平を害しようと謀ったため、人々から不興を買った。
河南平章政事として軍功を挙げる
- 至正十二年(1352年)、河南で盗賊が蜂起し、知樞密院事の婁章が出師したが久しく功を挙げられなかった。詔により台哈布哈は河南行省平章政事に任じられ太尉を加えられ、兵を率いて婁章に代わった。
- 一月足らずで南陽・汝寧・唐州・随州を平定し、さらに安陸・徳安などの路を陥とし、叛服を招き寄せて軍威が大いに振るった。
- 至正十四年(1354年)、托克托が太師右丞相として髙郵征討の全軍を統べたが、まもなく兵権を奪われ、台哈布哈が本省左丞相に昇進し、太尉伊徹察喇・樞密知院舒蘇とともに山東・河北諸軍の統率を任された。
太平との確執と驕慢
- 軍が食糧不足であったため軍紀が緩み、朝廷の命令に従わず、兵士が民を掠奪する事態が頻発した。
- 至正十五年(1355年)、監察御史伊埒呼圖克らが台哈布哈の怠慢と民への暴虐を弾劾し、朝廷はその職をすべて剥奪して和實衮に平章政事達實巴圖爾の下で従軍させた。
- その後まもなく湖廣行省左丞相に復任し、湖廣・荆襄の諸軍を統べて沔陽・湖廣等処の水陸の賊を招捕した。ちょうどそのころ太平が再び中書左丞相に復任したと聞き、台哈布哈は「私は朝廷に背いていないのに、朝廷が私を裏切った。漢人の太平が今また要職に居て安逸を貪り、私だけが外で苦労するのか」と憤った。
- 賊を撃退したのち諸将が渡江して勝勢に乗じようとしたが、台哈布哈は「兵を養う」との名目でかえって兵を退いた。汴梁の守将が援軍を求めても、使者が十度往復してようやく渡河したが、なお武具を構えたまま進もうとしなかった。督戦を促されても「小賊など何ほどのものか、我に神算あり」と豪語するばかりで、実際には軍を放って百里四方を掠奪させた。曹・濮を襲うと称して彰徳・衛輝に駐屯し続けた。
- 子の壽通も同知樞密院事として山東を討伐したが功を挙げられず、驕慢な言葉を奏上して帝の不興を買った。
- 至正十八年(1358年)、山東の賊が京畿に迫ったため台哈布哈は中書右丞相となり討伐の兵を総べた。渡河後、上疏して「軍糧の確保には太平を軍中に置くほかない」と述べたが、実は太平を軍中に呼び寄せて害する意図であった。
- 同省の巴延特穆爾・張晉らが壽通の不進軍を弾劾すると、台哈布哈は輸送の遅延を理由にこれを処断させ、また知樞密院事諤勒哲特穆爾を右丞に据えて別の罪を着せ軍中に召して害そうとした。太平はこれを知って監察御史茂嚕爾哈らに台哈布哈の「緩師拒命」の罪を弾劾させ、帝の前で強く讒言した。
弾劾と誅殺
- 詔が下って台哈布哈の官爵は剥奪され、兵権を奪われて葢州(蓋州)に安置され、知樞密院事烏蘭哈達がその兵を統べることとなった。
- 詔を聞いた台哈布哈は夜のうちに旧部将で淮南行省平章政事の劉哈喇布哈のもとへ馳せ参じ、救いを求めた。劉哈喇布哈は宴を張って慷慨し、自ら都に赴いて弁明しようと誓った。
- しかし京師で太平に会うと、太平から「台哈布哈は大逆不道であり、詔がすでに下っているのに軽々しく妄言を吐くのか」と脅され、劉哈喇布哈は動揺した。太平は「台哈布哈を捕えて連れてくれば、汝の功績とみなす」と持ちかけ、劉哈喇布哈はこれに応じた。
- もとより劉哈喇布哈は台哈布哈の幕下で、寵臣の倪晦に比べて自分の計略が容れられぬことを恨んでいた。ついに台哈布哈父子を捕縛して京師へ護送する途中、まだ到着しないうちに二人とも殺された。