出自と地方官
- 達実特穆爾は字は九成、幼くして兄の特穆爾達実とともに国学に入り諸生となり、経史を読んで大義を通じることができた。初め世胄をもって官に補せられ太府監提点となり、治書侍御史に抜擢され言により罷され、枢密院同知に除され中書右丞・翰林承旨に陞り大司農に遷った。至正七年(1347年)、江浙行省平章政事に出され、翌年、また入って大司農となり、九年(1349年)、湖広行省平章政事となった。沅・靖・郴・桂等路の猺獠が竊発したとき、朝廷は溪洞の険阻を理由に招諭する詔を下したが、達実特穆爾は寇情が計り難いとして三分省を置くことを請い、一つは静江を治め、一つは沅靖を治め、一つは郴桂を治め、左右丞・参政を分けてその地に兵を鎮めさせ、靖州路総管府を罷め靖州軍民安撫司を立て万戸府を設けて戍兵を益すことを提案した。朝廷はみなその言に従うと、まもなく諸猺獠はことごとく降った。召し還されて再び大司農となり、十一年(1351年)、台州の方国珍が海上で起こると達実特穆爾は詔を奉じ江浙行省参知政事の樊執敬とともに招諭に赴いた。
- 翌年、盗が河南で起こると河南行省平章政事を拝し、着任すると城池を修め守備を戒め賊が敢えて境を犯さなかった。淮南行省平章政事に遷り、十五年(1355年)、中書平章政事に入った。当時中書の庶務は多く吏胥に遅留されていたが、着任すると提控掾史二人に委ねて左右曹を分督させことごとく剖決させた。江浙行省左丞相に出され、まもなく知行枢密院事を兼ね便宜行事を許された。当時江淮の盗勢は日々盛んで南北は阻隔していたが、達実特穆爾は独り方面を治めながら人を用いること適さず賄賂を通じ官爵を売り、貨の軽重によって高下をつけたため謗議が紛然と起こり、所部の郡県はしばしば陥落したが恬然として意に介さなかった。
張士誠との対立
- 十六年(1356年)正月、張士誠が平江を陥落させ、七月、杭州に逼ると達実特穆爾はすぐに城を棄て富陽に逃げた。万戸普賢努がこれを力めて拒ぎ、苗軍帥の楊諤勒哲が当時嘉興に駐屯していたので兵を率いてこれに至り、張士誠を敗走させた。達実特穆爾はそこで還った。当初、達実特穆爾は鄂勒哲を海北宣慰使都元帥に任じたが、まもなく江浙行省参政に陞り、この時右丞に陞った。苗軍は素より紀律がなく肆に鈔掠をなし通過する所は蕩然として遺すものがなかったが、達実特穆爾はまさに諤勒哲を重んじ倚頼していたためこれを禁止できず、鄂勒哲は矜り驕り日々恣にした。翌年、士誠が嘉興を寇すると、しばしば諤勒哲に敗られた。士誠は曼済哈雅を遣わし書をもって偽って降ることを求めさせた。曼済雅哈はかつて南行台御史中丞であったが軍を率いて水寨を采石に結び大明兵に敗られたため士誠に走り帰り、士誠がこれを来させた。書詞は多く不遜であったが、諤勒哲はこれを納めようとし、達実特穆爾は「私は昔淮南にあり士誠を招安した経験から、その反覆にして降を信じられないことを知っている」と不可としたが、鄂勒哲がしきりに勧めるためついにこれを許した。
- 士誠は初め王爵を求めたが達実特穆爾は許さず、また三公の爵を請うと「三公は有司の定めるところではない、今、私は便宜行事を持しているが専断はできない」と述べた。諤勒哲がまた力めて請うと、達実特穆爾は外に正詞を装いながら実はその降を幸いに思っており、また諤勒哲の意に逆らうことを恐れたため士誠に太尉、その弟の士徳に淮南行省平章政事、士信に同知行枢密院事を授け、その党にもみな官を差をつけて授けた。士徳はまもなく大明兵に擒えられ、士信を再び淮南行省平章政事に陞らせた。しかし士誠は降りながら城池・府庫・甲兵・銭穀はみな自らのままに拠り続けた。朝廷は張士誠を招安した功として達実特穆爾に太尉を加える詔を下した。当時徽州・建徳が陥落し、諤勒哲がしばしば師を出しても不利であった。士誠はもとより諤勒哲を除こうと図っており、諤勒哲もまた平章政事の慶童の女を強娶しようとしたが、達実特穆爾はその婚を主宰しながらもこれを甚だ厭っていたため、密かに士誠と諤勒哲を除く謀を計り建徳への出兵を促すよう揚言させた。諤勒哲の営は杭城の北にあり備えていなかったためついに包囲され苗軍はことごとく潰えた。諤勒哲と弟の巴延はともに自殺した。後にこの事が朝に聞こえ諤勒哲には潭国忠愍公、巴延には衡国忠烈公が贈られた。諤勒哲が死ぬと士誠はついに杭州を占拠した。
晩年と死
- 十九年(1359年)、朝廷は士信に江浙行省平章政事を授けたが、士信はすぐに浙西の諸郡民を大挙徴発して杭城を築いた。先に海運が久しく通じておらず朝廷は使いを遣わし糧を徴していたが、士誠は米十余万石を運び京師に達した。方面の権はことごとく張氏に帰し、達実特穆爾は虚名を保つだけとなった。まもなく士誠はその部属に功徳を頌させ必ず王爵を求めさせたが、達実特穆爾は左右に「私が制を承けてここにいるのは口舌によってこの輩を馭するに過ぎない、今、張氏が再び王爵を求めるのは、朝廷が微弱であっても最終的にはその脅しに屈しないものだ、ただし今もしこの意に逆らえば目前に必ず害を受けるだろう、しばらく含垢忍恥してこれに従うほかない」と述べ、文書を具えて朝に聞かせたが再三報告しても返答がなかったため、士誠はついに自立して呉王となり平江に治所と宮闕を立て官属を置いた。
- 当時、達蘭特穆爾が江浙行省右丞、哲伯が左右司郎中であったが、二人は士誠に諂い多くの金帛を受け取り、しばしば達実特穆爾の落ち度を作りあげ讒言したため、張氏との関係はますます険悪になった。二十四年(1364年)、士信は王晟等に達実特穆爾の過失を面前で数え上げさせ、その移咨省院を強い、自ら老病を理由に退くよう陳べさせ、また「丞相の任は士信でなければならない」と言わせた。士信はすぐさま達実特穆爾が掌る符印を取り上げ自ら江浙行省左丞相となり、達実特穆爾を嘉興に徙し垣墻を峻しくし門闥を錮じ厳重に禁防した。達実特穆爾はこれを意に介さず日々妻妾と酒を飲み歌を放って自若としていた。
- 士誠が有司に令して公牘にはみな「呉王令旨」を首に称させ、また行台を諷して朝廷に実授を請わせたが、行台御史大夫の布哈特穆爾はみな従わなかった。これに続き達実特穆爾を拘えると、士誠は人を遣わし紹興の布哈特穆爾から行台の印章を索取させた。布哈特穆爾はその印を封じて庫に置き「私の頭は断てても印は与えられない」と述べ、船に乗せられそうになると「私は死ねても辱められない」と言った。従容と沐浴し衣を更め妻子と訣別し詩二章を賦してついに薬を仰いで死んだ。臨死に杯を地に投げ「私は死ぬ、逆賊は必ず私に続いて亡ぶだろう」と述べた。後日、達実特穆爾はこれを聞いて歎じ「大夫すでに死しては、私が死なずしてどうしようか」と述べ、左右に命じて薬酒を進めさせ飲んで死んだ。士誠はその柩と妻孥を載せて京師に北返させた。
- 布哈特穆爾は字は兼善、達蘭奈曼氏、行台御史大夫の特穆格の子である。福建行省平章政事を歴任し累遷したが、当時境内はみな諸豪に占拠され施設を施す余地がなかった。南行台に遷ってからも張士誠に逼られて死んだが、論者はその死が達実特穆爾よりまさっていたと評した。