多爾濟
- 多爾濟はモクリの六世孫、托克托の子。多爾濟は一歳で孤児となり、成長すると宿衛に備え母に事えて至孝、読書を好み古の君臣行事や忠君愛民の道を軽々しく学ばず深く究めた。至治二年(1322年)、中奉大夫・集賢学士を授かった、時にまだ弱冠に及ばなかったが、当時同僚の郭貫・趙世延・鄧文原ら諸老はみなこれを器重した。天暦元年(1328年)、多羅台国王が上都から兵を領して古北口に至り大都の兵と迎撃したが、事が定まると文宗は多羅台を殺した。二年(1329年)、多爾濟は国王位を襲い上都に扈蹕し、便を得て遼陽の国に送られる詔を受けた。
- 順帝の後至元四年(1338年)、多羅台の弟奈曼台が太師巴延の勢いを恃み国王位は自分が襲うべきものと朝廷に愬えた。巴延の妻は多爾濟の大珠環の価直万六千錠のものを得ようとしたが、多爾濟には応じるものがなかった。そこで慨然と「王位は我が祖宗の伝えたもの、人から求めて買うべきではない、私が得られないとしても、他の誰かがなろうとも同じ宗族の人間なのだ」と述べた。これにより奈曼台は賂を通じて国王となり、多爾濟は遼陽行省左丞相に除された。安靖をもって治となし民を用いて騒がせなかった。六年(1340年)、河南行省左丞相に遷り、遼陽時代と同じ政を為した。先に河南の范孟が乱を起こした事件で誤って連座した者が千百人に及んでいたが、多爾濟が至ってその冤を頗る知りこれを直そうとしたが、平章政事の納琳という元問官がその説を執って従わなかった。まもなく納琳が朝廷に還り、多爾濟の心が漢人に偏っていると言ったが、多爾濟の人となりは寛弘で度量があり、これも意に介さなかった。
- 至正四年(1344年)、江浙行省左丞相に遷った。当時杭城はしばしば災いに見舞われ焼失していたが、伯勒齊爾布哈が先に相となり寛紓を務め、多爾濟がこれを継いでも旧のままとし民心は翕然と帰した。汀州で寇が竊発すると将士を調遣して招捕させ、威信の及ぶところ数月で平定した。帝はその績を嘉し九龍衣・上尊酒を賜わり、方面(一地方の統治責任者)を居ること二年、安寧が保たれると杭の耆老は前丞相の故事に倣って生祠を建てようとしたが、多爾濟は「昔、我が父は浙省の平章であった、私は実にここに生まれた、父老が私に愛情を持たれるのはもっともだが、私は杭人にどうして情がないと言えようか。しかし今、私は幸いに天下承平の世に相位を叨っているに過ぎない、ここで唯法度を謹み守るを知るのみ、どうして虚名を用いようか」と辞した。
- 七年(1347年)、召されて御史大夫を拝した。丞相の位が空くと秋、中書左丞相を拝し、冬、右丞相に陞り監修国史とし、太平が左丞相となった。この時朝廷は無事で稽古礼文の事に廃れたものがあれば必ず挙行され、経筵講官を賜わり坐して聖学を崇めさせることを請い、清望の官を選んで専ら陳言を典させ治道を求めさせ、守令の六事を核し僧尼を沙汰し隠逸の士を挙げた(事は太平伝に見える)。
- ある年、留守司が致賀の礼を行い、物は先に鴻禧観に留められ二相(多爾濟・太平)に饋られようとしたとき、多爾濟の家臣が観に寓し物に豊殺(多寡)があり、左相に贈るものは特に豊かであることを察し、その事を具に告げ却けることを請うたが、多爾濟は「彼が贈らなくても私は何を恨むこともない」と述べそのまま受けさせた。郯王の家産が既に官に籍せられた際、多爾濟は掾史にその数を記録させたが、翌日、掾史が平章の韓嘉訥に復命したのが丞相の命によるものでないことを知ると、勃然として色を変え掾史を叱り「公事は下から上に及ぶべきもの、公はどうして丞相の位を勝手に語るのか」と客省使に命じ扶き出させた。多爾濟は動じることなく、識者はみなその度量に服した。
- 九年(1349年)、丞相位を罷めて再び国王として遼陽に赴いた。十四年(1354年)、托克托が総兵して南討する際、中書参議の龔伯遂が諸宗王及び異姓王をみな出軍させるよう建言し、呉王托爾齊は厚く伯遂に賂して免れたが、多爾濟だけは「私は国家の世臣、天下に事あるときは政に効力する時だ、私はどうして小輩と賄賂を通じる暇があろうか」と述べ即座に兵を領し淮南に出て托克托の節制を聴いた。托克托は六合を攻めさせ抜かせたが、まもなく托克托の官爵を削り兵権を罷める詔が出たため、多爾濟は本部の兵で揚州を守った。十五年(1355年)、軍中で薨じた。年五十二。
- 当初、多爾濟が集賢学士であった頃、従兄の丞相拜珠が上都にあり南坡の変で拜珠が害された際、賊臣の特克実・斉勒特穆爾等は多爾濟の従子多爾濟巴勒もあわせて殺そうとしたが、多爾濟巴勒は当時わずか八歳で集賽官の蘇都爾のもとへ免れを求めに行き、これにより難を脱した。多爾濟は相たるにあたり大体を存することを務め、太平は逆に庶務を兼理し一時の政権は太平から出ることが多く趨附する者も多かったが、多爾濟は凝然としてこれと較べようとせず、太平もまた推譲して礼を尽くしたので、中外は皆二人を賢相と称した。子は二人、都哩木特穆爾は翰林学士、アムガシリは国王を襲った。