和尚
- 和尚は蒙古奈曼台氏。祖の海蘇は実勒們千戸所の蒙古軍百戸に充てられ、伯父の烏魯斯布哈は初め蒙古軍五十戸に充てられ、至元七年(1270年)、実勒們千戸に従い南征し功により百戸を摂り、僉省アサルハヤの樊城攻めに従い、十一年(1274年)新城攻め、鄂の東門攻め、処州攻めにも従いしばしば功を立てた。二十五年(1288年)、銀符を賜わり敦武校尉・後衛親軍百戸を授かり、この年秋に卒した。父の察爾竒がこれを襲い、察爾竒が卒すると和尚が襲った。至大三年(1310年)、忠翊校尉・後衛親軍副千戸に進み金符を賜わった。延祐三年(1316年)、江西寧都で寇が起こり守土の官吏を殺すと、元帥竒珠等に従い総兵してこれを討ち、賊酋の蔡五九を生け捕りにして誅した。致和元年(1328年)八月、西安王が都爾蘇を討った際、丞相ヤクテムルに従い額卜徳哷勒を捕らえ、分兵して備禦した。天暦元年(1328年)九月、通州の戦いに従い功により名馬を賞され、紅橋を攻める兵を撃つ際に自ら戈を刺して二人を殺しこれを敗り、紅橋及び納琳哲爾大夫等の軍を白浮で破り四人を殺した。和尚は丞相に「両軍が戦う際は識別の印が必要。今、号纓(旗印)がともに黒で見分けがつかない。我が軍は白に改めるべき」と進言し、丞相はこれに従った。昌平の栗園で戦い二人を殺し、またイシテムルと石槽で戦い三人を殺した。十月、檀州南の桑口で秃們爾岱の軍を撃破し、また丞相に従いその軍を檀州の北で追撃し功があった。十一月、八衛把総金皷都鎮撫司事を領する命を受けた。