元史卷一百三十四 列傳第二十一 劉容

清廉な地方官

  • 劉容は字は仲寛、先祖は西寧青海人。高祖の阿勒華は西夏の尚食で、西夏平定後に雲京に徙民され父の海川もその中にあり雲京人となった。劉容は幼くして頴悟、読書を好んだが騎射の武風には染まらなかった。中統初年、国師の推薦で皇太子の東宮に侍り庫蔵を掌り、退直後は国子祭酒許衡に師事した。至元七年(1270年)世祖が鎮海に駐蹕した際、劉容の吏事を聞いて中書省掾事を権知させ、後にその職に復し忠直で称された。
  • 十五年(1278年)江西撫慰の使いに際し、送遺を受けて権貴に賄えば栄寵を得られると勧める者があったが、「民を剥いで自利するのは心が許さない」と述べ、帰還時は書籍数車を皇太子に献じただけであった。忌嫉者が讒言したため疎まれたが劉容は弁明しなかった。詹事院が立てられると「太子は天下の本、端人正士が輔翼せねば邪佞が進んで徳を損なう」と上言し、賛同を得た。太子司儀に任じ祕書監に改まり、まもなく広平路総管として同姓で財産を争う長年の訴訟を戸籍から父祖の名字を調べ実情を明らかにして裁定した。皇子雲南王が汴に至った際、達嚕噶齊が過度な徴収で賄を通じようとしたのを劉容が自ら赴いて費用を減じさせた。享年五十二で卒。