元史卷一百三十四 列傳第二十一 阿錫頁

西域の学識者

  • 阿錫頁は西域仏琳人。西域諸部の言語に通じ星暦・医薬に長じた。定宗の頃、直言敢諌で世祖が藩邸にいた頃に器とされ、中統四年(1263年)西域星暦医薬二司の掌管を命じられ、後に広惠司に改めても引き続き領した。
  • 世祖が都城で大がかりな仏事を行い教坊の妓楽・儀仗で迎導しようとした際、阿錫頁は「高麗新附、山東初定、江南未下で天下疲弊の中の無益な費え」と諫めて嘉納された。至元五年(1268年)保定で長期の狩を続ける帝に、供給の民の労苦を語って狩を止めさせた。十三年(1276年)丞相巴延の江南平定帰還時、姦臣が飛語で讒言したのを阿錫頁が叩頭して諫め解かせた。西北の宗王鄂勒歓のもとへの使命を果たし、平章政事を固辞し秘書監領崇福使に転じ、翰林学士承旨兼修国史、大德元年(1297年)平章政事、八年(1305年)京師地震で帝が病に伏す中、中宮の下問「天地示警・民何与焉」に「天地は警告を示すもの、民の咎ではない」と答えた。
  • 成宗崩御時、内旨で星暦秘文を索められたが阿錫頁は厳色でこれを拒んだ。仁宗の時、秦国公に封じられ卒去、太師開府儀同三司上柱国仏琳忠献王を追贈。子五人あり、阿哩雅(秦国公崇福使)、達罕(翰林学士承旨)、哈斯(光禄卿)、竒爾濟蘇(同知泉府院事)、老哈(広恵司提挙)。