元史卷一百三十四 列傳第二十一 実保

西域出身の名臣

  • 実保は輝和爾人。父の吉勒伯格齊は身長八尺で智勇に優れ、太祖の北征を聞いて兵を率いて帰順、回回国征討に功があり自ら本国古魯城達嚕噶齊を願い出、種田戸二百を賜り卒した。実保は世祖の潜邸に事え長筆且齊、中統元年(1260年)真定路達嚕噶齊、後に戸部尚書宗正府扎爾古齊となった。
  • 額哷布格の叛に、実保は河西で督糧の任にあったが、西京北で万戸阿実克特穆爾らが額哷布格に従おうとしているのを知り、矯制でその軍を行在に召還、疑いを持つ阿実克特穆爾らを「皇帝は兄、額哷布格は弟、兄に従うのが順」と説き、包囲されながらも説得を成功させ二万の兵を率いて帝に謁見した。帝は「戦陣の間で一夫の助けを得るのも大事なのに実保は二万の軍を得た」と称した。
  • 海都の叛に世祖が親征しようとした際、先に実保が使いして罷兵を諭すと海都は聴命し兵を退いたが、丞相安圖の軍が既に和爾和大王部曲を破っていたため、海都は「殺されないのはお前の父の恩」として実保を釈放し安圖の事を報告させた。帝は「その通りだ」と評し、中書右丞商議政事に任じ宗王の女博囉章公主を妻に賜った。翌年再び使いして海都に帰順を諭し「従わなければ諸王藩衛の兵に敵し得るか」と説いたが、海都は死を畏れて動かなかった。実保はこの使命に三年、風沙で目を傷めた頃には齢七十に及んでいた。翰林承旨として全俸で養老、八十九歳で卒去。子の烏嚕斯哈美は至元二十三年(1286年)浙東宣慰使として僭称の乱を平定、広西の峒蛮反乱も招諭で鎮め享年六十九で卒。その子耀珠は至大三年(1310年)典用監卿として世祖御帯の盗難を五千錠の懸賞で捕らえ、賞を辞退した武宗にその不伐の気を嘉され千錠を賜り、栄禄大夫宗正府扎爾古齊に至った。