元史卷一百三十四 列傳第二十一 額訥格爾

出自と国難

  • 額訥格爾は字は正卿。先祖は永古特部で臨洮の狄道に徙り、金末に遼東に移った。曽祖の特穆爾英は金の馬歩軍指揮使であったことから馬を氏とした。祖の博索瑪伊爾は静州の天山に徙り財を蓄え、金の宣宗の汴遷都に伴い一族も移った。父の実喇濟蘇は尚書省の訳史から開封判官、鳳翔府兵馬判官を経て国事に死し、輔国上将軍恒州刺史・廟号褒忠を追贈された。額訥格爾は好学負気、父の死時十七歳で「父は国難に死んだ、自分だけ家難を紓(ゆる)められないのか」と述べ、汴陥落後に母を奉じて北行、鋒鏑の間を経て憲宗に謁見、その端謹な態度が評価され贊布扎爾断事官の事務を任され、燕の故城を治所とした。

治績と晩年

  • 政事に努め、壬子年(1252年)中原の民丁調査に際し儒者は試験で一経に通じれば編戸から除く制を建言、儒人の免丁はここに始まる。常平倉の設置を提言し、楊春卿・張孝純ら賢士を諸郡に配し、敬鼎臣を招いて授業させ、馬文玉・牛応之らを参佐に推薦、いずれも後に卿相に至った。己未年(1259年)世祖の親王としての南征に従い汴で饋饟を専管、済南の塩百万斤を輸して公私の費を賄い、汴・蔡・汝・潁の商農が安業した。世祖即位後、詔で褒奨を受けた。
  • 世祖の額哷布格親征に際し私財で馬五百を市して助軍、帝は「必ず償う」と述べ礼部尚書・金虎符を賜った。至元四年(1267年)南辺不靖に対し、光・潁等処に榷場を立てれば年に鉄百三万七千余斤が得られ農器二十万を鋳造して粟四万石を輸せ官民両便、南方鎮撫にも資すると建言、詔でその本職兼領と戸三千の興煽鉄冶・蒙古漢軍節制を命じられたが、実施前に疾で卒去、享年四十八。推忠宣力翊運功臣正議大夫僉書枢密院事上軽車都尉梁郡侯謚忠懿を追贈。子孫の仕籍者は多く、仁宗朝の科挙制の時、曽孫の祖常は郷試・会試共に首席で翰林応奉から監察御史に任じ直言で上官の意に忤い浮光に去ったが後に翰林待制に起用され、御史中丞まで累遷し謚は文貞。