伊蘇岱爾・実都爾
- 伊蘇岱爾は喀喇人。父の阿勒巴巴雅濟呼は太祖の時に衆を率いて帰順し五十戸を率いて南征し戦死した。伊蘇岱爾はその官を継ぎ丞相巴延の襄樊経略に従い百丈山・鸛子灘攻めで功が最大、襄樊包囲合流の際は甲を着て先登し銀鈔百両を賞された。翌年復州攻略でも戦功を立て百戸に陞り、主帥が賞の不足を訴えると世祖は金符を賜って千戸に加え五路招討を督させた。至元十六年(1279年)金虎符に改まり管軍総管、江南平定の論功で懐遠大将軍管軍万戸に進み江淮の戦艦数百艘を領して東征日本に赴き全軍で帰還、養老百戸と衣服・弓矢・鞍轡を特賜された。二十二年(1285年)泰州に移鎮、籍民丁で得た万人を欽察親軍指揮使として統率、大德三年(1299年)疾で卒去。子七人あり、嘉琿達、哈斯(父職を継ぎ疾で卒)、赫徳(牧馬同知)、延壽(兄職を継ぐ)、巴延(哈喇齊を領す)、諤勒哲特穆爾(広徳路万戸達嚕噶齊)、哈喇章。
- 実都爾は欽察氏。父の托蘇は蒙古軍籍に隷し、中統二年(1261年)丞相巴延の李璮討伐に従い功で百戸を授かった。至元十年(1273年)父の告老に代わって職を継ぎ、十一年(1274年)南征に従い襄陽・唐・鄧・申・裕・鈞・許等州の攻略に累功、忠顕校尉管軍総把に授かり銀符を賜り父の軍を率いた。十四年(1277年)諸王拜穆爾に従い珠爾噶岱・雅布薩爾らを黒城哈喇和琳の地で追撃し平定。十七年(1280年)金符を賜り武略将軍侍衛軍百戸に陞る。亡宋の未附城邑の招降を自ら省に願い出て許され、諸城が風に応じて帰順した。
- 二十四年(1287年)虎符を賜り宣武将軍漢洞右江万戸府達嚕噶齊、同年秋七月に洞軍を領し鎮南王の交趾征討に従軍。冬十月境に入り万劫に駐兵、右丞阿巴齊の命で一字城を攻め交人の戦艦七艘を奪った。翌年正月、偽興道王の居城に迫り塔児山で交人と戦い、右腕に毒矢を受け血を流しながらも交人二十余人を射殺、更に諸軍を督して大破し都城に入った。四月韓村堡の戦で将黄澤を捕らえたが、夜に交人の襲営があり官軍は堅壁で待ち、明け方に鼓を鳴らして出撃し交人を退けた。木柵を立て警戒を強化し交人は敢えて犯さなかった。五月、鎮南王の撤兵に前軍として従い、陥泥関で交人と数十合戦い退けた末、女児関で鎮南王と合流を図ったが交人四万余に要路を断たれ、軍が飢えと疲労に苦しみ将佐も色を失う中、実都爾は勇士を率いて強行突破し交人を二十余里退け全軍で帰還を果たした。鎮南王はその労を賞し秩を進めさせ、二十六年(1289年)虎符を賜り広威将軍砲手軍匠万戸府達嚕噶齊。大德二年(1298年)卒し、子の額森特穆爾が継いだ。