西域方面の功
- 安巴は唐古人。祖の森濟図は太祖を布琳塔爾哈納の地で迎え、その効順を嘉して図爾哈筆且齊兼克哷穆爾齊とされた。父の図嚕齊が職を継ぎ、憲宗の朝で文州礼店元帥府達嚕噶齊に至った。安巴は弱冠で入宿衛、性は厳重剛果で大志があった。燉煌への親迎の途上、兵に阻まれて帰れなくなり于闐の宗王阿勒呼木のもとに客居した。世祖が色徹肯らを阿勒呼木のもとに使いさせ通好したが阿勒呼木は使者を数年留めたため、安巴は自らの馬駝を贈って使者を逃がした。色徹肯らが脱出して事の次第を世祖に伝えると、世祖は長く称歎した。まもなく元帥布哈特穆爾らが于闐を征討する際、安巴は行営に至り帳中の色徹肯に会い「公の忠義はすでに帝に達している」と告げられ、布哈特穆爾は承制で安巴を枢密院客省使に任じ、その妻子を京師に護送する詔も出た。
- 宗王納延の叛に世祖親征、安巴も従軍で連戦し客爾叟・布爾噶・博勒卓等処万戸に任じられた。諸王哈魯・駙馬図們岱爾らの叛に、克爾叟・実保図の地で身に七創を受け乗馬も二矢を受けながら旦から晡まで力戦、図們岱爾を刺殺し哈魯を生擒して献じた。世祖はその功を嘉し唐古衛を長とし僉枢密院事を兼ねさせ、五衛軍の職と屯戍の法の改定を多く任せた。同僉・副樞・同知を経て知枢密院事に至り疾で卒。推忠保節功臣資善大夫甘粛等処行中書省右丞上護軍寧夏郡公謚忠遂を追贈された。子の阿齊拉は知枢密院事、琳沁巴勒は湖広省左丞となった。