出自と武功
- 貝降は北庭人。父の呼圗克は武勇に優れ宿衛から南宿州鎮将となり分守開県、のち世祖の南征に従い齢七十近くまで士卒に先んじて矢石を冒し数十の戦傷を負う戦功があった。大名清豊県に徙居して卒し、廣平路総管を追贈され漁陽郡侯に封じられた。呼圗克が卒したとき貝降はまだ生後数ヶ月で、母徐氏が育て教育した。徐氏は「わが子は一人しかいない、学を知らせずにおくものか」と述べ、僻地に良師がいないため大名城中の師に学ばせた。郡守は朔望に学に入りその容止・講解が他の児童と異なるのを愛でた。壮年に近づくと美しい髭髯と偉容を備えた。
- 丞相阿珠の襄陽・江陵攻略に偏裨として麾下に属し、安陽灘で宋軍と遭遇した際、宋騎の突撃で陣が崩れそうになると躍馬して陣前に出、弓を引いて数人を斃し宋騎を退けた末、宋師は大潰した。至元五年(1268年)襄樊包囲で功を立て、十一年(1274年)阿珠の渡江戦でも先登し勇冠一軍と称された。江南平定の功で江浙省理問官を授かる。事業草創期に行省臣の建白や急を要する事案の奏聞に、貝降の弁舌の良さから度々驛を馳せて朝廷に往来した。世祖に引見された際、遥かに識別され「黒髯使臣がまた来たか」と喜ばれるほど重んじられた。
地方官としての善政
- 二十七年(1290年)江西行尚書省都鎮撫に遷り、猺獠の擾辺を丞相孟古岱に従って平定。二十九年(1292年)慶元路治中に遷り、大飢饉に見舞われた際に行省が上申を無視し続けたことに対し「民が飢えているのに賑済せぬのが民の父母の心か」と述べ、自ら行省に赴いて力請し粟四万石を放出させ民を全活させた。
- 元貞年間、両浙鹽運司同知の范某が奸を働き州県吏を賄で操り、細民の珍貨・良田を奪い、抗う者は讒訴で家業を破壊するなど専横を極め、里人がこれを殺そうとするほどであったが、逆に誣訴されて逮捕された者が数十人に及び獄死する者も多かった。蘭渓州の民葉一王十四が良田宅を持つのを范が奪おうとして誣告し、十年決着しない事案が省から理問所に下され、たまたま貝降が調べたところ冤罪と判明、范を刑に処したが既に七人が獄中で瘐死していた。葉一王十四だけは釈放を得た。
- 大德元年(1297年)浙東廉訪副使に遷り、豪強を懾伏させ、同僚の貪穢者を弾劾して免官させた。後に工部侍郎、燕服一襲を賜り工部尚書に進み能声を得た。至大二年(1309年)武宗が皇太后を奉じて五臺で避暑した際、道中の供給に欠けることなく、恩賚を受けた。都に戻り資国院使に改まった。母徐氏が卒すると酒禁厳しい中、帝は特命で酒十甖を官給し伝送させ墓所での奠礼に備えさせた。徐氏は盛年に守節し子を厳しく教え、朝廷から旌表を受け、老いても貝降の官歴の名声を喜び「このような子があれば死んでも瞑目できる」と語った。
- 貝降は喪に礼を尽くしたが起復の前に延祐二年(1315年)自宅で卒去。資政大夫江浙右丞を追贈され、諡は貞惠。