出自と若年
- 約珠は幼くして容止端厳、聡悟にして遠識があった。八歳のとき画師何澄の「陶母剪髪図」を見て、陶母の手中の金釧を指し「金釧を換えて酒を買えるのに、なぜ髪を剪るのか」と問い、何澄はその聡明に驚いた。長じて学に励み日に千言を記憶。十八歳で丞相達実密に従って宿衛に備え、宮中を出入りするさまは老成の人のようであった。
官途
- 至大元年(1308年)、集賢学士・正議大夫を授かり、賢を薦め能を挙げることを己の任とした。皇慶元年(1312年)、中奉大夫湖広道宣慰使に陞り、日々儒生を接見して民の困窮を問うた。延祐三年(1316年)、資善大夫隆禧院使に進み、七年(1320年)、太史院使を授かる。英宗はその進退の落ち着きぶりを見て「参政蘇蘇よ、全院使こそ真の名家の令子だ」と評した。
- 泰定元年(1324年)、太常礼儀院使に改まり、四年(1327年)、礼部尚書を授かり会同館事を領し、まもなく江西行中書省参知政事に転じた。天暦元年(1328年)、栄禄大夫集賢大学士に進み、至順二年(1331年)、江西等処行中書省平章政事に除される。
- このとき富民が永寧王への官帑銭八百余錠を負っていると誣告する者があり、中書は各路に使者を遣わして徴収させようとしたが、江西に至った使者に対し約珠は「事は誣罔に渉る、命を奉じられない」と述べ、僚佐が宰臣の意向に逆らうことを憚る中「民は邦の本、これを傷つけて怨みを買うのは宰相の福ではない」と使者に復命させた。丞相雅克特穆爾はこれを聞いて感悟し、刑部に命じて調べさせたところ誣告と判明し、誣告者を処罰した。帝は嘉して幣帛と上尊酒を賜った。
- 桂陽州の民張思進ら二千余衆が蜂起し州県が制御できず、広東宣慰司が出兵を請うたのに対し、約珠は「有司が辺民を撫綏できないのに僥倖の興兵で民害を招くのか」と反対、宰執や憲司が興兵を主張する中でも頑として拒み、千戸王英を遣わして事情を問わせたところ、王英は賊の巣まで赴き禍福を説き、賊は「我らを非にしたのは二巡検司のみ、どうして異心があろうか」と答え、皆帰順して一方は安定した。
- 三年(1332年)、河南江北等処行中書省平章政事に遷り、軍事のため揚州に至って病を得、翌年十二月、端座したまま卒去。享年五十三。
- 約珠は天資孝友。母弟玖珠が早世した際は喪を尽くして哀しんだ。経史を好み天文医薬の書にまで極め、度量が広く、人に欺かれても恬然として動じず「彼は自ら欺いているのだ、自分に何の関わりがあろう」と述べた。母郜氏も常に「わが子は古人のようだ」と称した。子四人あり、長の布達は同僉行宣政院事、次の額森は玖珠の後を継ぎ章佩監丞、次の仁寿は中憲大夫、長秋寺卿。