太宗・憲宗朝
- 蘇克は蒙古人。父の呼嚕古爾は国王穆呼哩麾下の卒であったが、のち塔海特爾格の軍に隷属した。蘇克は馳馬に巧みで口弁があり、慎重で秘密を漏らさなかったため銀符を佩び常に軍中にあって機務を奏上し、往復して期を違えることがなかった。太宗はその才を認めて「棟格矩」の名を賜い、詔を伝える任を担わせた。憲宗の時に卒した。
- 蘇克自身も壮勇で軍中にあり、甲寅年(1254年)、憲宗の命で都元帥特爾格・和爾齊らに従い蜀に入った。乙夘年(1255年)、万戸劉齊格・阿爾婁阿里が宋兵と巴州で戦い敗れ敵中に陥ったのを、蘇克が馳せ入って救出、白金五十両・馬二匹・紫羅圏甲を賜った。都元帥耨埒に従い宋将劉整を破り雲頂山城を攻略。耨埒が涪州から馬湖江に至った際、蘇克は革製の舟で夜に渡江して大獲山の行在所に報告に赴き、帰途に三曹山で宋軍と遭遇、僅か百余の兵で奮戦してこれを破った。
- 己未年(1259年)、涪州の浮橋を攻める宋兵に部将和尼齊が敗れたのを囲みを破って救出。三曹山でも宋軍を破り、石羊で劉整と再度戦い撃破した。
世祖朝の四川攻略
- 世祖即位後、白金・弓刀・鞍勒を賜り、中統二年(1261年)銀符を賜って耨埒軍に隷属。至元二年(1265年)四川行省の招降で民三千余人を得、三年(1266年)行院塔齊に従い九頂山で戦い、四年(1267年)行省伊蘇岱爾の命で本軍総管とされ瀘州を攻略。五年(1268年)徳州が立てられ達嚕噶齊とされ、陝西五路四川行省左右司員外郎に抜擢。七年(1270年)伊蘇岱爾に従い馬湖江で宋軍を破り、行尚書省員外郎に遷る。
- 九年(1272年)、建都蛮の叛乱討伐で千人を率いて先鋒となり黎州水尾砦を破って連雲関を攻略、東山で戦い酋長布庫を斬る。十年(1273年)碉楼諸蛮を討ち連環城を破り、七盤山で宋軍を破って新軍万戸に辟された。十一年(1274年)虎符を賜り管軍万戸として成都・高烏格ら六翼と京兆新軍の水戦訓練を統括、伊蘇岱爾の嘉定包囲に舟師で参加。十二年(1275年)宋将昝万寿を麻平で破り、龍埧城を守って宋将陳都統・鮮于団練の舟師を追撃、紫雲・瀘・敘の諸城を降した。
- 十三年(1276年)、五道からの水陸並進で戦艦三百艘・捕虜百三十人を得、涪州守将の降伏を実現。重慶守臣張万の来襲を一昼夜十八戦で撃退し、三千の精兵の再攻撃も破った。十四年(1277年)嘉定総管府達嚕噶齊。瀘州の再叛を平定に従い、重慶守将趙安の降伏と逃亡した制置使張珏の追撃で百余人と舟二十余艘を得た。功により成都水軍万戸、のち重慶・夔府等路宣撫招討両司軍民達嚕噶齊に改任。
西南経略と晩年
- 十六年(1279年)四川南道宣慰使、水軍万戸として重慶・夔・施・黔・忠・万・雲・涪・瀘等州を鎮める。十九年(1282年)亦奚不薛蛮の叛乱で順元等路軍民宣慰司が置かれ、宣慰使として諸蛮を経理。二十四年(1287年)河東陝西等路万戸府達嚕噶齊。播州宣撫賽音布哈らの留任要請を受け、八番金竹百余の砦を降して戸三万四千を得、順元路・金竹府・貴州の郡県を置いて統べた。東は九渓十八洞、南は交趾、西は雲南に至るまで節制した。
- 二十九年(1292年)都元帥を加えられ、三十一年(1294年)四川行枢密院事を僉書、土番の反乱で茂州を囲まれた際に率兵して破った。元貞元年(1295年)行院廃止に伴い家居し、数年後に卒去。子の蘇布特齊が河東陝西等処万戸府達嚕噶齊を襲封した。