元史卷一百二十五 列傳第十二 高智耀

高智耀(子睿を附す)

  • 河西の人。代々夏国に仕え、曽祖の逸は大都督府尹、祖の良恵は右丞相であった。智耀は本国の進士第に登り、夏が亡ぶと賀蘭山に隠れた。太宗が河西の故家子孫で賢なる者を訪め求めた際、衆は智耀を挙げた。召見され登用されようとしたが、辞して帰った。
  • 皇子の奎騰が西涼を鎮していたとき、儒者は皆賦役に隷せられていた。智耀は藩邸に謁し、「儒者は税役の免除が久しく行われてきたが、一朝にして厮養と同じ役に就くのは便宜ではない、これを除くべきだ」と言い、皇子はその言に従った。官を奏して授けようとしたが応じなかった。
  • 憲宗の即位に伴い智耀は入見し、「儒者が学ぶ堯・舜・禹・湯・文・武の道は、古来国家を有する者がこれを用いれば治まり用いなければ治まらない。その材を養い成すのは、その用に資するためである。徭役を免じて教育すべきだ」と述べた。帝が「儒家は巫医とどう違うのか」と問うと、「儒は綱常をもって天下を治める、方技の輩と比べられようか」と答えた。帝は「よい、これまでこのことを朕に告げた者はいなかった」と言い、海内の儒士に徭役を課さぬことを詔した。
  • 世祖は潜邸にいた頃すでにその賢を聞いており、即位に及んで召見すると、また力を尽くして儒術が治道に補いあることを説き、反覆して弁論し辞は千百に及んだ。帝はその言を異とし、印を鋳造して授け、免役の儒戸はすべてこれに従わせ、公文を給して証拠とした。当時、淮・蜀の士で俘虜にされた者は皆没して奴とされていたが、智耀は「儒を駆(奴隷)とすることは古来ないことです。陛下はまさに古道をもって治めようとされている、これを除いて天下を風化すべきです」と奏し、帝はこれに同意し、直ちに翰林学士を拝させ郡県を巡行して区別させたところ、数千人を得た。
  • 貴臣の中にその詭濫を言う者があり、帝がこれを詰ると、「士は例えるならば金である。金の色に深浅があっても金でないとは言えない。才芸に深浅があっても士でないとは言えない」と答えた。帝は悦びさらに寵賚を加えた。
  • 智耀はまた「国初は庶政が草創期にあり綱紀がまだ張られていない、前代に倣って御史台を置き官常を糾肅すべきだ」と言い、至元五年に御史台が立てられたのはその議によるものであった。西夏中興等路提刑按察使に擢された。
  • たまたま西北の藩王が使者を遣わして入朝し「本朝の旧俗は漢法と異なるのに、今は漢地に留まり都邑城郭を建て、儀文制度は漢法に遵う、その理由は何か」と問うと、帝は報聘の使を求めてその問いを折ろうとし、智耀が入見してこれを行くことを請うた。帝が答えるべき事柄を問うと、条を分けて対応が帝意に叶い、即日出発を命じられたが、上京に至って病没した。帝はこれを深く哀悼した。のち崇文賛治功臣・金紫光禄大夫・司徒・柱國を贈られ、寧国公に追封、諡は文忠。子は睿。

睿(高智耀の子)

  • 資性は直亮であった。智耀の北使に随行し、その死に及んで帝がその子の在所を問うと、近臣が睿を見せ、時に年十六であった。符宝郎を授けられ禁闥を出入りし、恭謹詳雅であった。しばらくして唐古衛指揮副使を授けられ、翰林待制・礼部侍郎を歴任した。
  • 嘉興路総管に除された際、境内に長らく捕らえられない盗賊がいて白昼に民財を掠奪しており、捕らえようとした者はすでに十数人に及んでいたが誰も近づけずにいた。睿が令を下すと十日足らずで捕らえられ、一郡は安んじた。
  • 江東道提刑按察使に擢された折、部内で草賊が跳梁し、宣城郡を包囲すると噂され、将は懦弱で城門を開かなかった。睿はこれを召して「賊の勢いが盛んなのに官が先に弱さを示せば、民は何をよりどころにするのか」と責め、密かに兵を配して守らせながら城門を開放し民の出入り・貿易を自由にさせた。すると賊は備えありと見て進めず、ついにこれを討ち平らげた。
  • 同僉行枢密院事に除され、浙西道粛政廉訪使に遷った。塩官州の民に党与を結んで郡邑の是非を左右する者があり、その頭目は「十老」と呼ばれ、吏は誰も問うことができなかったが、睿はことごとく法によって糾し、境内は快とした。
  • 江南行台侍御史を拝し、御史中丞に進んだ。淮東道粛政廉訪使に除された際、真州の庫の鈔三万緡が盗まれ、有司が大々的に索捕し平民数百人を追捕したが、吏はこれに乗じて姦利を得ていた。睿は自ら詳しく審理してその実情を得ると彼らを釈放したが、まもなく果たして真の盗人を得た。
  • 再び南台御史中丞を拝し、大体を持することを務め儒者の風があった。延祐元年に没した。年六十六。累って推忠佐理功臣・太傅・開府儀同三司・上柱國を贈られ、寧国公に追封、諡は貞簡。子の納麟は官が太尉・江南諸道行御史台大夫に至った。別に伝がある。