李楨
- 字は榦臣。その先祖は西夏国族の子である。金末、経童(明経科の童試)に選ばれ、成長して質子となり、文学によって近侍を得た。太宗はこれを嘉し、鄂爾綽勒筆且齊の名を賜り、皇子庫春の金討伐に従った。帝は「軍中の事はすべて楨に諮れ」と諭した。
- 河南諸郡を下すと、庫春は楨に竒圖噶を伴わせて唐・鄧の二州に赴かせ、民数・兵糧を調べさせたが、当年は凶年で民の十中八九は流散していた。楨は着任すると賑恤して飢寒を救い、帰る者が市のごとくであった。
- 十年、大将の察罕に従って淮甸を攻略し、楨は功により金符を帯び、軍前行中書省左右司郎中を授けられた。楨は天下の儒士を尋ね求め、居所において優遇するよう奏した。
- 十三年、寿春を囲む師のさなか、天雨止まぬ日が続き、楨は察罕に「城下に師を頓めれば暑雨で疫病が起こり、不利になる。また城が久しく命に抗するなら、破ったときには必ず屠ることになり、それでは生霊に何の罪があろうか。数里退いて招降するのがよい」と進言し、これに従った。楨は単騎で敵塁に入り利害を説き、翌日その将二人とともに衆を率いて降り、功により銀五千両を賜った。
- 楨は「襄陽は呉蜀の要衝であり宋の喉襟であるから、これを得れば他日宋を取る基となる」と上表した。定宗はその言を嘉し、庚戌の年、虎符を賜い襄陽軍馬万戸を授けた。丙辰年、憲宗の命により襄樊を巡哨し、戊午年、帝の親征に楨を召して共に議事に加わらせた。秋九月、合州にて没した。年五十九。