遼東経略と巧計
- 綽爾濟都勒斡は蒙古克哷氏、部人二百を率いて太祖の奈曼・西夏征討に功があり、万人を将いて太師國王穆呼哩の前鋒となった。金の桓州を落として得た監馬幾百万匹を諸軍に分属させ軍勢を大いに振るった。辛未歳、遼東西諸州を破ったが東京だけ落とせず、金の使者を捕らえて「東京は金の旧都で守りが固い、計で破るべき、服を替えて使者と偕に行けば疑われぬ、門が開いたら大軍が続けば克てる」と提案しその通りに成功した。狗地から河北に至り大名で数十戦、城が陥ちかけたところで流矢に当たり卒した。武宗時に太傅・衛國公・諡武敏が追贈された。子の薩竒森布哈が軍を嗣いだ。
薩竒森布哈――対金の攻防と戦死
- 太宗元年己丑(1229年)金符を賜り河北・山東諸州を安輯した。真定の同知武仙が都元帥史天倪の家を滅ぼした際、弟の天澤が武仙を撃退し真定を回復、天澤が真定・河間・済南・東平・大名五路万戸となった。庚寅歳、薩竒森布哈は金虎符を佩び総師行省としてその軍を監した。金宣宗が汴に遷都した際、新衛に河平軍を立てて自固したが薩竒森布哈が数攻めても抜けなかった。壬辰(1232年)正月、太宗が白坡から済河南下、睿宗が峭石灘から渡漢北上する中、薩竒森布哈は西都水の舟を集め河隂から鄭に渡り、鄭守馬伯竒が降った。金哀宗が勢窮まり出奔した際、帝は薩竒森布哈に追躡を命じ、金の節度使薩尼雅布が衛を棄てて汴に入ったため薩竒森布哈は衛を占拠した。十二月、哀宗が黄陵岡から済河し衛の奪還を図ると薩竒森布哈は将拜甡と白公廟で五日夜戦い万計を俘斬、金の残衆は潰滅したが哀宗は歸徳に逃れた。薩竒森布哈は追撃し北門に迫るも軍の左右が水に囲まれ舟師の来襲が続き、癸巳(1233年)四月、金の将官努の夜襲で腹背から攻められ薩竒森布哈は一軍とともに戦死した。
- 嗣国王塔斯は薩竒森布哈の弟明安岱爾に行営を領させ、後に蒙古漢軍万戸に任じた。明安岱爾は善騎射で淮安征討に従い糧を敵から得て軍士の負担を減らした。癸丑(1253年)憲宗の命で實勒們太子に従い南伐し鈞州で戦死した。子は五人、長は都呼、幼は布埒齊。都呼は世祖の北征で叛王の陣に出入りする勇で「巴圖爾」の号を賜り李璮の乱平定にも功があった。布埒齊は光禄大夫徽政使。金滅亡後の大臣呼圖克が功臣戸を分封する際、薩竒森布哈の妻楊氏が「舅(義父)と夫はともに国事に死したのに私だけ遺された」と訴え、帝は「彼の家は再世死難した、新衛民二百戸を賜るべき」とした。薩竒森布哈には太師・諡忠武、明安岱爾には太保・諡武毅がそれぞれ贈られ、爵はいずれも衛國公。