竒雅喇討伐と武功
- 卓沁台は鄂爾和達氏、その先祖琳沁巴丹は材武で諸部に雄を唱え、生んだ子の鄂爾和達・莽果は扎拉爾・鴻吉哩・伊竒喇斯らと並ぶ開創期の五功臣とされ、太祖即位後にその子孫は各々の名を氏とし「五投下」と号した。朔方平定後、六十五人が千夫長に挙げられ、鄂爾和達の孫卓沁台もその一人であった。竒□(底本欠字。原文は実体参照「&KR1685;」で判読できない部族名)王汗の子星根が智勇で諸部に畏れられ、竒雅喇・哈喇克・心沙陀等の帥衆が来侵して戦況が不利になったとき、近臣が「羣下の忠勇は卓沁台に及ぶ者がない」と急遣を進言、卓沁台は単騎で陥陣し星根を射殺、その将實勒們らを降し竒□(前出と同地名)の地を併有した。奈曼の黙爾格台が合兵して来侵し内応の疑いもあったが、太祖の軍が急遽到着し勝ちに乗じてこれを破り、卓沁台は敵主嘉克堅布と二女を俘虜としたが盟って帰した。しかし奈曼が再叛すると計を用いて嘉克堅布を襲殺しその国を平定した。
- 竒雅喇征討にはハミより班沁海子を経て葛里に至る先鋒を務め、帝は「朕がお前を望むのは高山の前日の影のようだ」と語り、嬪御茂巴噶必濟音濟薩巴を賜って烏嚕古四千人を統べさせ世々替えぬこととした。
卓沁台の子孫――竒塔特から哈達・托歡まで
- 子の竒塔特は材武過人で太宗・世祖の四朝に歴事し、労により徳清郡王に封じられ金印を賜った。丙申(1236年)徳州户二万を食邑とし、至元十八年(1281年)二万一千户が増封され肇慶路・連州・徳州の属邑が属した。竒塔特の薨後、子の都沁巴圖爾が郡王を襲爵、太宗時に伊拉噶台と戦い勝ってその妻を賜った。世祖の額哷布格征討では竒塔特の子哈達と呼圖克が父祖の功業を継ぐべく従軍を願い、實黙温都爾の地で諸王哈坦・駙馬琳沁らと戦い勝ち、実喇雅圖噶の地では帝の前での混戦を日暮まで戦って勝った。李璮の乱では哈必齊・阿爾班・哈達・庫庫楚らが討伐に功があり、哈達の子托歡は諸王齊齊克圖に従い珠爾噶台を捕らえ、錫里濟永和爾や納延討伐にも功があった。托歡の弟慶通も病を押して力戦した。竒塔特から下ること九人が皆郡王に封じられたという。