元史卷一百十七 列傳第四 圖喇

越王から誅殺に至る顛末

  • 圖喇は太祖の次子察罕台の四世孫。少くして勇力で聞こえた。大徳十一年(1307年)春、成宗崩御に乗じ丞相アクタイらが安西王阿南逹の擁立と皇后巴約特氏の称制を謀り中外が動揺した際、懐孟から戻った仁宗が圖喇を内に引き入れアクタイらを縛って誅し大事を定めた。
  • 武宗即位後、その功により越王に封じられ金印と紹興路の分地を賜わったが、常に不満げであった。至大元年(1308年)秋、武宗が舟に乗ろうとするのを止め「一箭で麋を射止めたからといって百兎まで取れるとは限らぬ」(仲間同士を制する俗語)と諫めて武宗の不興を買い、さらに万歳山の宴で酔って腰帯を地に投げ「お前が我に与えたものはこれだけか」と帝に迫るなど帝の疑念を招いた。
  • 二年春、楚王伊克図・丞相托克托・平章齊勒特穆爾が鞫問し謀反の罪を認め誅された。子の西安王剌特納實哩は天暦初め推戴の功で豫王に進封された。