鎮辺と晋王としての治績
- 顯宗光聖仁慈皇帝、諱は噶瑪拉。裕宗の長子で母は徽仁裕聖皇后。幼くして祖母昭睿順聖皇后に養われ世祖の側を離れず、慎み深く軽々に発言しなかった。至元中、北辺鎮撫の命を受け、叛王永和爾らは望風して降り、都勒斡徹伯爾ら諸王も和を求め辺境は安定した。
- 金山に出征中、大雪の夜に部下の苦労を思いやり肉糜を分け与えた。額黙根に国語で通鑑を講じさせ、近侍台布哈には「威を借りて濫用する者は軽ければ追放、重ければ奏聞せよ」と戒めた。二十六年(1289年)栁林で狩猟の際、廩膳の不均を懸念し従士の百姓侵害を厳禁、世祖に「汝が柳林にあって民は乱れなかった」と称された。
- 翌年梁王に封じられ雲南に出鎮、途上も民から一切徴発しなかった。二十九年(1292年)晋王に改封され北辺に移鎮、太祖の四大鄂爾多と軍馬・達勒達国土を統べ、内史府を置くことを中書省が世祖に進言し許された。
- 世祖崩御の報に上都へ駆けつけ、諸王大臣の前で母弟特穆爾(成宗)の仁孝を理由に自ら帝位を辞し、藩邸に帰った。元貞元年(1295年)塔塔爾部の飢饉を賑済させ、鈔・銀帛を賜わり、大徳年間も辺士への支給が続いた。大徳六年(1302年)正月薨去、享年四十五。天性仁厚で下に恩あり、崇仏で財を費やす面もあった。子三人、哈遜特穆爾・薩克繖・徳勒格爾布哈。
- 薨去十年後、仁宗が獻武と諡し、その十一年後、英宗弑逆の際に哈遜特穆爾が晋王として即位(泰定帝)、光聖仁孝皇帝と追尊し廟号顯宗として太室に祔したが、文宗即位後にその廟室は毀された。