元史卷一百十五 列傳第二 裕宗

出自と東宮の徳行

  • 裕宗文恵明孝皇帝、諱は珍戩。世祖の嫡子で母は昭睿順聖皇后。姚樞・竇黙に孝経を学び、終巻を世祖が大いに喜んだ。中統三年(1262年)燕王に封じられ中書令を守り、丞相史天倪の諮問には「未熟ゆえ耆徳に頼る」と答え、王恂には政事に加わるよう諭した。
  • 至元七年(1270年)秋、青海巡撫の命を受け冬に帰京、扎拉呼・巴延ら側近と各々の心得を語り合い、太祖・世祖の遺訓と孔子の教えの一致を論じた。十年(1273年)三月皇太子に立ち中書令・判枢密院事を兼ね、玉冊を受けた。冊文は嫡子継統の重みを述べ、宗親との協和を求めた。
  • 疾病時は世祖自ら薬を調じ、名山川への祈祷では民を煩わせぬよう戒めた。侍衛親軍一万を東宮に隷させ王慶端らに兵法を教えさせた。物を大切にし、香殿建築で曲水流觴の池を求められると「肉林酒池を真似よというのか」と却下した。経典講論を好み、資治通鑑・貞観政要・許衡の著作等を学び、王怐・李謙・宋衟らを重用した。
  • 十八年(1281年)二月昭睿順聖皇后が崩じると勺飲も口にせず廬帳に居し、宋衟の推薦で郭祐・何瑋・徐琰・馬紹・楊居寛・何栄祖・楊仁風らを召し用いた。王恂が卒すると賻鈔二千五百緡を贈り「直言を厭わぬ者は今稀」と嘆いた。権臣アハマトが専横していた頃、太子は不快を隠さず、盗人がアハマトを恐れさせる者は太子のみと知り偽って太子を騙り夜襲・誅殺する事件も起きた。
  • 和爾果斯が入相すると太子は孔子の道の実践を促し、楊仁風・馬紹・楊恭懿・董文用らを召し議政させた。王惲の「承華事略」二十条(広孝・立愛・端本など)にも通じ、漢成帝や唐粛宗の故事に感じ入り、邢峙が斉太子に邪蒿を諫めた故事も引いた。
  • 江西龍興路を分地とされると、邢州の張耕のような善政を望み、羨余鈔の献上を「百姓を安んじれば銭糧は自ずと足る」と却下した。俘虜として献じられた新民百六十戸も放免を命じ、雲南の馬の過剰貢納も止めさせた。二十年(1283年)保定の劉因を召し右賛善大夫、瓜爾佳之竒を左賛善大夫とし国子学を整備した。金章宗の「一人の范文正公を養う」逸話も引いて学問を重んじた。
  • 宋の旧臣倪堅を招いて古今の得失(三代は仁による興亡、漢唐は外戚・宦官、宋は姦党・権臣による滅亡)を聞き、日暮まで語り合った。李謙・瓜爾佳之竒の十事(正心・睦親・崇倹・親賢・幾諫・戢兵・尚文・定律・正名・革敝)の上言も嘉納し、特に正名・革敝の論は時政に切実であった。中書に在って財利進言者を退け、盧世榮の重税策には「財は天より降らぬ、民の膏血を竭くすのみ」と強く非とし、後に世榮は罪に伏した。
  • 至元の太平期、太子は師友を優遇し宋衟・王磐・孔洙らと交わり、その大雅は中外の心を得た。世祖晩年、江南行台監察御史が禅位を上言すると太子は恐れてその奏を留めさせたが、小人が漏らし世祖の怒りを買い、太子はますます懼れた。まもなく薨去、享年四十三。成宗即位後、文恵明孝皇帝と追諡し廟号裕宗、太廟に祔した。