元史卷七十五 祭祀志第二十六 祭祀四 宗廟下

親謝の儀(その目は8項目)

  1. 斎戒:享の前3日、皇帝は別殿で2日間散斎、大次で1日間致斎する。応享の官員は中書省で常儀の如く誓戒を受ける。
  2. 陳設:親祀の儀に同じ。
  3. 車駕出宮:享の前1日、所司が内外仗と応享の官を崇天門外に序立、太僕卿が大明門外に御馬を控える。侍中の「中厳」「外辦」奏の後、四品以上の応享執事官が起居し、皇帝は輿に乗り大明門外で馬に乗り換え、崇天門を経て太廟櫺星門外の紅橋南で百官が下馬、皇帝は歩いて廟門に入り輿に乗り大次に至り入次する。祝冊は禮儀使が奏請し皇帝が署名した後、太廟令が受け各室の祝案に奠じる。
  4. 省牲器:親祀の儀に同じ。
  5. 晨裸享:祀の日丑前5刻、光禄卿・良醖令・太官令が籩豆簠簋尊罍を実れ、大楽令が工人・二舞を率いて入る。太常卿・御史が升殿し陳設を点視した後、司徒等の官が各室で分香・設酒する。太常卿・御史・太廟令・太祝・宮闈令が升殿し帝后神主を出す。奉禮が「奉神主」を賛し御史以下再拝、就位する。摂太尉が南神門東偏門より入り就位、宮県楽(思成之曲、9成)を経て太尉以下再拝する。太尉が盥洗・爵洗の後升殿し、太祖尊彜所で酌鬯し、太祖神位前で三上香・裸鬯を行い出戸再拝する。次室以下も同様に行い、終われば復位する。
  6. 進饌:太尉の裸がまさに終わろうとする頃、前儀の如く饌を進める。
  7. 酌献:太尉が升殿し裸を行った後、禮儀使の奏請を経て皇帝は袞冕を服し西神門から鎮圭を執って入り版位に至り再拝、盥洗の後升殿し太祖室酒尊所で泛斉を酌み太祖神位前で三上香・三祭酒・馬湩の祭を行い、司徒が奉じる牲盤を受けて神案上に奠じ、蒙古祝史が致辞し読祝、再拝する。次室以下も同様に行う。飲福位で福酒・胙肉黍稷飯を受け再拝の後版位に還り小次に入る。徹籩豆・賜胙の後、送神楽(保成之曲)が奏され、皇帝は再拝し禮儀使の「礼畢」奏の後、大次に還る。太廟令が神主を殿に納め諸執事は再拝して退く。祝版は匱に蔵される。
  8. 車駕還宮:皇帝が大次に還り解厳、通天冠絳紗袍に着替え、来た時と逆の順で百官の上馬・下馬を経て崇天門・大明門を経て還宮する。

摂祀の儀(その目は9項目)

  1. 斎戒:享の前3日、三献官以下祭に与る員は皆公服で中書省にて誓戒を受ける。質明、有司が省庭に金椅を設け、1人が紅羅の繖を執りその左に立つ。奉禮郎が儀鸞局を率い版位を陳設する。初献太尉位は省階のやや西南向き、大礼使位はその東やや南西向き、監祭御史位2は通道の西東向き、監礼博士位2は通道の東西向き(いずれも北上)、司徒・亜終献位はその南北向き西上、次に助奠・七祀献官、次に太常卿・光禄卿・光禄丞・書祝官・読祝官・太官令・良醖令・廩犠令・司尊彜・挙祝官・太官丞・廩犠丞・奉爵官・奉瓉官・盥爵官2・巾篚官2、蒙古太祝・巫祝、点視儀衛官・清道官及び与祭官が品級に依り陳設される。太廟令・大楽令・郊社令・太祝位は通道の西北向き東上、太廟丞・大楽丞・郊社丞・奉禮郎・協律郎・司天生位は通道の東北向き西上、斎郎位はその後ろに置く。賛者が行事等の官を各々就位させ、初献官の誓文(「某年某月某日享于太廟、各揚其職、其或不敬、国有常刑」)を読み、散斎2日は正寝に宿し致斎1日は祠所に宿す。散斎日は治事するが弔喪問病・作楽・判署刑殺文字・決罰罪人・穢汚事への関与を禁じ、致斎日は享事のみ行う。与享の官で已に斎して欠員となった者は通じて摂行する。七品以下の官はまず退き、余官は再拝して礼を畢える。守廟の兵衛・大楽工人は共に一夜清斎し、祀所に赴く日は官が酒饌を給う。
  2. 陳設:享の前2日、所司が兵衛を廟門に設け行人を禁断する。儀鸞局が饌殿所に幄幔を設け、三献官以下行事執事官の次を斎房の前に設ける。前1日、大楽令が宮県の楽(磬簴・鐘簴・十二鎛鐘・柷敔・路鼓・晋鼓等)を庭中に、文舞を北県の前、武舞を東西県の外に設け、舞師・執旌・執纛・執器等がこれに従う。また登歌の楽(玉磬・金鐘・柷敔・摶拊等)を殿上前楹間に設ける。享の前1日、太廟令がその属を率い廟庭の内外を掃除し、枢密院軍官1員が軍人を率い草穢を剗除し道路を平治する。七祀燎柴を廟門の外に設け、室内には北牖下・当戸南向きに神位(黼扆1・紫綾厚褥1・薄褥1・莞席1・繅席2・虎皮次席2、暑い時は桃枝竹席)を鋪設する。三献官の拝跪褥位2(室内外各1)を設け、学士院が撰定した祝冊を書祝官が饌幕で公服にて書し、初献官が署名した後、太廟令に授ける。祝案を室戸外の右に設ける。三献官・亜献終献・助奠七祀献官・書祝官・読祝官・挙祝官・太廟令・太官令・良醖令・廩犠令・太廟丞・太官丞・司尊彜・奉瓉官・奉爵官・盥洗巾篚官・爵洗巾篚官・蒙古太祝・巫祝・太祝・宮闈令・七祀司尊彜盥洗巾篚等の位、及び斎郎位を殿下横街の南に東向き重行に設け、大礼使位を南神門東偏門やや北北向きに、司徒・太常卿等位を横街の南やや東西向き(亜終献と相対)に、監祭御史・監礼博士位を横街の北西向きに設ける。協律郎位を宮県楽簴の西北東向き、大楽丞をその間、大楽令・協律郎位を登歌楽簴の間に設ける。牲榜を東神門外南向きに、太常卿・監祭御史・太官令・光禄丞・太官丞・廩犠令丞・諸太祝・蒙古巫祝の省牲位を設ける。省饌位を省饌殿前に設ける(太常卿・光禄卿丞・太官令が東西向き、監祭監礼が西東向き、いずれも北上)。太廟令が祝版を室右の祝案に陳ね祠祭局が籩豆簠簋(毎室左12籩右12豆、4行、登3・鉶3・簠2・簋2、俎7、香案1・沙池1)を設ける。毎室の尊罍(斚彜・黄彜各1、春夏は雞彜・鳥彜、犠尊2・象尊2、秋冬は著尊・壺尊・著尊2・山罍2)を通廊に、壺尊2・太尊2・山罍4を殿下階間に設けて酌さない。七祀の位・祭器・盥洗爵洗位もあわせて設ける。
  3. 習儀:享の前2日、三献以下諸執事官員が太廟に赴き習儀する。翌日早く各々公服で乗馬し東華門に赴き御香を迎接し廟に至り省牲する。
  4. 迎香:享の前1日、有司が坊市に告諭し道路を灑掃する。質明、三献官以下・諸執事官が公服(六品以下は借紫服)で崇天門下に詣で、太常礼儀院官1員が御香を、1員が酒を、2員が馬湩を宮中より奉じ出し、監祭監礼・奉禮郎・太祝が両班で先導、控鶴5人(1人は繖を執り従者4人が儀仗を執る)が前行、大明門より出て教坊大楽が奏される。崇天門外で香酒馬湩を輿に安置し、外垣櫺星門外で百官が乗馬、清道官・巡兵・金鼓・京尹儀従・教坊大楽・控鶴弩手・拱衛使・儀鳳司細楽の順で行列し、太常卿・博士・御史が輿前を導き、献官・司徒・大礼使・助奠官が従い殿下に至る。献官が香酒馬湩を東階から升殿し通廊正位に安置する。禮直官が獻官を導き東階から降り東神門北偏門より出て釈服する。
  5. 省牲器:親祀の儀に同じ。
  6. 晨裸:祀の日丑前5刻、太常卿・光禄卿・太廟令がその属を率い神位に燭を設け、三献官・司徒・大礼使等が毎室1人ずつ御香・酒醴を分設し、金玉爵で馬湩・葡萄・尚醖酒を酌み神案に奠じる。籩豆簠簋登鉶尊彜(明水・鬱鬯・泛斉・醴斉・盎斉・三酒・醍斉・沈斉、上尊は明水或いは玄酒、酒斉は上醞で代える)を実れ、七祀の祭器も同様に実れる。陳設が終わると献官以下が斎班庁に会し、太常卿・監祭監礼・太廟令・太祝・宮闈令・斎郎が就位し監祭監礼が壇の上下を按じ蓋羃を徹して糺察する。太常卿・監祭監礼・太廟令・太祝・宮闈令が東階を升り太祖室の神羃(帝主は蒙古太祝、后主は宮闈令)を起こし、各室でも同様に行う。太常卿以下が横街間で北向きに立ち再拝の後、太官令が斎郎を率い出、三献官・司徒・大礼使・七祀献官・諸行事官が東偏門より入り就位する。「有司謹具請行事」の合図で宮県楽(思成之曲、9成)と文舞(9変)が奏され、再拝の後、初献官が盥洗・爵洗の後、登歌楽を経て東階を升り太祖酌尊所で鬱鬯を酌み、太祖神位前で三上香・裸鬯(沙池に灌ぐ)し、出戸北向きに再拝、各室でも同様に行い終われば復位する。
  7. 饋食:初献の裸が終わると前儀の如く進饌する。
  8. 酌献:太祝が茅苴を盤に立て、初献官が盥洗・爵洗の後、東階を升り太祖酒尊所で犠尊の泛斉を酌み、太祖神座前で三上香・三祭酒(茅苴に)を行い、出戸北向きに立ち読祝を俟つ。読祝の後、再拝し各室でも同様に行う。文舞が退き武舞が進み、亜献官が同様に酌献(象尊の醴斉)し、終献官も同様に酌献(著尊の盎斉)する。七祀献官も各々盥洗・酌献する。
  9. 祭馬湩:終献の酌献が終わろうとする頃、初献・亜献官・司徒・大礼使・助奠官・七祀献官・太常卿・監祭監礼・太廟令丞・蒙古庖人・巫祝等が升殿し、蒙古庖人が牲体を割き献官に授け、献官がそれぞれ帝主・后主の神位前に奠じる。太廟令が案上の金玉爵斚に馬湩・葡萄・尚醞酒を次第に授け、献官がいずれも沙池に祭り、蒙古巫祝が致辞する。宮県楽(進饌の曲と同じ)が奏され、初献が拝礼の後、監祭監禮以下が本朝の跪礼で拝する。徹籩豆の後、賜胙・送神楽(保成之曲、1成)が奏される。太祝が各室の祝版を捧げ望瘞位に赴き、三献・司徒・大礼使・助奠・七祀献官・太常卿・光禄卿・監祭監礼が燔祝版を視て、半燎の後「可瘞」を賛す。三献以下・諸執事・斎郎等は東偏門より出て攝位で圓揖する。楽工・二舞もこれに続いて出る。太常卿・太廟令・監祭監礼・蒙古太祝・宮闈令・各室太祝が東階を升り太祖神座前より神主を陞納し、各室終われば東階を降り横街南に北向き西上で立ち、奉禮の賛で再拝し以て出、礼を畢える。三献官・司徒・大礼使・太常礼儀院使・光禄卿等が胙を奉じ闕庭に進呈する(駕が上都に幸する時は駅で赴き奉進する)。

攝行告謝の儀

  • 告の前3日、三献官以下諸執事官が公服で中書省にて誓戒を受け、前1日未正2刻に牲器を省する。質明、三献官以下が法服を服し、太常卿・監祭御史・監礼博士・五令諸執事官がまず就位、監祭監礼が陳設を点視の後復位する。太常卿・監祭監礼・太廟令・太祝・宮闈令が各室神主を遷し、奉禮の賛で再拝、就位する。太官令・斎郎が出た後、三献・司徒・光禄卿が瓉爵・盥爵洗官を捧げ就位する。「有司謹具請行事」の合図で降神楽(9成)の後、三献以下再拝、初献が盥洗・爵洗の後、第一室酒尊所で鬱鬯を酌み神座前で三上香・奠幣・裸鬯し出戸再拝、次室でも同様に行う。次に司徒が斎郎を率い進饌する。初献がまた盥洗・爵洗の後、酒尊所で酌酒し神座前で三上香・三祭酒を行い、読祝を俟って再拝、各室でも同様に行う。亜献官・終献官も同様に酌献(読祝はしない)する。徹籩豆・賜胙の後、三献官・司徒・太常卿・監祭監礼が祝版・幣帛を焚くのを視て「可瘞」の後、太常卿・監祭監礼が神主を陞納し横街から再拝して退く。

薦新の儀

  • 薦新の日、質明に太常礼儀院官属が廟所に赴き公服で次に俟つ。太廟令がその属を率い升殿し室戸を開くが神主は出さず、籩豆俎・酒醴・馬湩及び室戸内外の褥位を設ける。盥洗位を階下やや東西向きに設け、奉禮郎が儀鸞局を率い席褥版位を横街南に設ける。盥盆巾帨2所を斎班幕前に設け、与祭執事官は皆盥手する。太常官が神厨に詣で神饌を点視し、執事者が薦める饌物を饌幕内に陳ねる。太常官以下が就位し再拝の後、太常次官1員が執事者を率い饌を正門より入り太階を升り各室神位前に奠じる。院官が受け取り奠じる。太常礼儀使が盥洗の後升殿し第一室神位前で酒を杯に注ぎ三祭酒、また馬湩を杯に注ぎ三祭し、杯を案に奠じ出戸再拝、各室でも同様に行い終われば復位する。執事者が皆降り再拝の後、余官が執事者を率い饌を徹して出、殿の戸を閉める。太常官以下が東神門外に出て圓揖する。

神御殿

  • 神御殿は旧称「影堂」といい、祖宗の御容を安置する所で、いずれも紋綺局が織錦で作った。影堂の所在は次の通り。世祖帝后は大聖寿万安寺(裕宗帝后もここにある)、順宗帝后は大普慶寺(仁宗帝后もここにある)、成宗帝后は大天寿万寧寺、武宗及び二后は大崇恩福元寺(東西二殿)、明宗帝后は大天源延聖寺、英宗帝后は大永福寺、也可皇后は大護国仁王寺。世祖・武宗の影堂にはいずれも玉冊12牒・玉宝1鈕を蔵す。仁宗影堂には皇太子玉冊12牒、皇后玉冊12牒・玉宝1鈕を蔵す。英宗影堂には皇帝玉冊12牒・玉宝1鈕、皇太子玉冊12牒を蔵す。帝后の冊宝は匣匵・金鎖鑰で太廟に蔵すのが本来だが、これらは分置されたものである。祭器は黄金の缻・斚・盤・盂の類が10数、黄金塗銀の香合・碗楪の類が百数、銀の壺・釜・杯・匜の類も同様に多数、玉器・水晶・瑪瑙の器も数多い。玻璃瓶・琥珀勺があり、世祖影堂には真珠簾もあり、また珊瑚樹・碧甸子山の類もあった。祭りの日は、常祭は毎月1日・8日・15日・23日、節祭は元日・清明・端午・重陽・冬至・忌辰に行う。常祭の祭物は蔬果、節祭・忌辰には牲を用いる。祭官は便服で二献礼を行い、加薦には羊羔炙・黄饅頭・&KR0008;子・西域湯餅・圜米粥・砂糖飯羹を用いた。泰定2年(1325年)には大天源延聖寺に顕宗影堂も作られたが、天暦元年(1328年)に廃された。旧来は崇福・殊祥の二院が影堂の祀事を奉じていたが、泰禧院に改め、天暦2年(1329年)にはさらに太禧宗禋院(秩二品)に改めた。まもなく、祖宗が御した殿をなお「影堂」と称していたのを改め「神御殿」と号し、殿にはいずれも名を製して冠せた(世祖は元寿・昭睿順聖皇后は睿寿・諾爾布皇后は懿寿・裕宗は明寿・成宗は広寿・順宗は衍寿・武宗は仁寿・文献昭聖皇后は昭寿・順宗は文寿・英宗は宣寿・明宗は景寿)。学士に祭祀の儀注を擬させたが、今は闕けている。またこの他、玉華宮の孝思殿は真定にあり、世祖が忌日に太上皇・皇太后の御容を享祀するために建てたもので、本路の官吏が祭奠した。太常博士は宋会要に依りその儀を定め、有司が前もって荼飯香果を置き、質明に禮直官が獻官と陪位官以下を廟庭に西向きに入らせ再拝の後、獻官を殿正階下に導き再拝させ、階を升り案前の褥位で三上香・三奠酒し拝礼、獻官を復位させ陪位官以下と共に再拝して退く。仁宗の皇慶2年(1313年)秋8月庚辰、大司徒田宗良に命じ真定に致祭させ、歳ごとに定例で御香・酒・犠牲祭物・銭(中統紗100錠)を給した。延祐4年(1317年)には初めて登歌楽を用いて二献礼を行い、延祐7年(1320年)には太常博士が「影堂に太常の礼楽を用いるのは非である」として制罷され、以後は歳時に本処が旧礼に依り致祭した。
  • 太祖・太宗・睿宗の御容が翰林院にあるものについては、至元15年(1278年)11月に承旨和爾果斯に命じ太祖御容を写させ、至元16年(1279年)2月には太上皇御容と太宗旧御容を復たび写させ、いずれも翰林院に置いて院官が春秋に致祭した。至元24年(1287年)2月、翰林院が「旧院の屋は敝れ、新院の屋はわずか6間で三朝の御容は太常寺に安奉するのが宜しい」と言上、後になおも尚書省の旧に遷置された。至大4年(1311年)、翰林院を旧尚書省に移置し、旨があり月祭とされたが、中書平章鄂勒哲らが「祭は小事でない。太廟は歳一祭で執事諸臣は3日戒誓してから行事する。今、これを軽易にするのは宜しくない。旧置の翰林院御容の春秋二祭で必ずしも増益する必要はない」と言上、制は「可」とした。至治3年(1323年)には普慶寺に遷され祀礼は廃された。泰定2年(1325年)8月、中書省臣が「祭は故の如くすべき」と言上、承旨鄂齊爾に命じ香酒を大都に齎らし省臣と共に寺で祭った。泰定4年(1327年)、石仏寺に影堂を造ったが未だ遷らないうちに、至順元年(1330年)7月、普慶寺で祭ることが故の如く行われた。至順2年(1331年)にはまた翰林国史院で祀られた。後至元6年(1340年)、翰林院が「三朝御容の祭所は甚だ狭く、歳久しく屋も漏る。石仏寺の新影堂に奉安するのが宜しい」と言上、中書省臣は「これは世祖の定制であり、なおその旧に依るべき」と奏し、制は「可」とした。