元史卷七十四 祭祀志第二十五 祭祀三 宗廟上

概説

  • 祖宗を祭享する礼では、牲を割き馬湩を奠じ、蒙古の巫祝が祝辞を捧げる。これは国俗である。

太廟の沿革

世祖期

  • 中統元年(1260年)秋7月丁丑、中書省に神位を設け登歌楽を用い、筆且斉(訳せば「典書記」の意)を遣わし致祭。12月、初めて太廟の祭器・法服を製することを命じた。
  • 中統2年(1261年)9月庚申朔、中書の署を徙し神主を聖安寺に奉遷。辛巳、瑞像殿に蔵す。
  • 中統3年(1262年)12月癸亥、中書省で三献官・大礼使・司徒が摂祀事を行い、礼が終わると神主はまた瑞像殿に蔵された。
  • 中統4年(1263年)3月癸卯、燕京に太廟を建てることを詔した。11月丙戌、なお中書省で祀事を行い、親王哈坦・塔斉爾王盤・張文謙が摂事した。
  • 至元元年(1264年)冬10月、神主を太廟に奉安。初めて太廟七室の制を定めた(皇祖・皇祖妣を第一室、皇伯考・伯妣を第二室、皇考・皇妣を第三室、皇伯考・伯妣を第四室、皇伯考・伯妣を第五室、皇兄・皇后を第六室、皇兄・皇后を第七室とし、いずれの室も西を上とし東に次ぐ)。
  • 至元2年(1265年)9月、初めて犠牲を滌養することを命じ、大楽工を東平から取り寄せ礼儀を習わせた。冬10月己卯、太廟に享し、皇祖を尊んで太祖とした。
  • 至元3年(1266年)秋9月、初めて八室の神主を作り祏室を設けた。冬10月、太廟が成る。丞相安図・巴延が「祖宗の世数・尊謚・廟号・配享功臣・増祀四世の各廟神主・七祀神位法服祭器等の事はいずれも時に応じて定めるべき」と言上。平章政事趙璧らに命じて集議させ、尊謚・廟号を制定して八室とした。烈祖神元皇帝・皇曽祖妣宣懿皇后を第一室、太祖聖武皇帝・皇祖妣光献皇后を第二室、太宗英文皇帝・皇伯妣昭慈皇后を第三室、皇伯卓沁・皇伯妣必克楚黙色を第四室、皇伯考察罕台・皇伯妣額斯倫を第五室、皇考睿宗景襄皇帝・皇妣荘聖皇后を第六室、定宗蕳平皇帝・欽淑皇后を第七室、憲宗桓粛皇帝・貞節皇后を第八室とした。11月戊申、神主を祏室に奉安。歳ごとに冬祀を初めの礼の通りに行うこととした。
  • 至元4年(1267年)2月、初めて1年に12月の薦新時物を定めた。
  • 至元6年(1269年)冬、時享が終わった12月、国師僧に命じ太廟で仏事を薦めさせた。7昼夜かけて木質金表の牌位16を造り始め、大榻・金椅を設けて祏室の前に奉安した。太廟で仏事を薦める始まりである。
  • 至元7年(1270年)10月癸酉、宗廟の祝文を国字で書くよう勅した。
  • 至元8年(1271年)8月、太廟の柱が朽ちたため、張易の言に従い列室に告げてから修め、金牌位と旧神主を饌幕殿に遷し、修工が終わると安奉した。以後、廟を修めるときは常にこれに依った。丙子、冬享に犠牛を用いないことを勅した。
  • 至元12年(1275年)5月、検討張謙が「昔、太廟修理のため金牌位を饌幕殿に遷した際、金椅を用いその栗主は旧主・牌位とともに箱に貯えて金椅の下に安置したが礼として宜しくない。今、金牌位を八室内に遷し、祏室の栗主は綵輿を用いて遷納し、旧主とともに牌位は箱に安置するのが宜しい」と呈言した。9月丁丑、太廟の牲にまた牛を用いることを勅した。10月己未、金牌位を八室内に遷した。太祝兼奉礼郎申屠致遠が「木主がすでに成り、また金牌位もあるが、日月山の神主及び中統初め中書に設けた祭神主は安奉する所がない」と言上。博士は「祏室の栗主を存し、旧に置いた神主・牌位は随時に埋瘞すべきで、神が二つに帰することのないように」と議した。太常少卿はこれを聞き、制は「張仲謙ら諸老臣とこれを議し行え」とした。
  • 至元13年(1276年)9月丙申、太廟で仏事を薦めることを命じ、仏事の行われる場所で便宜的に大祭を行うこととした。己亥、太廟に享し羊・鹿・野豕を加薦した。この歳、金主を改作し、太祖の主には「青吉斯皇帝」、睿宗には「太上皇伊克諾延」、皇后にはいずれも名諱を題した。
  • 至元14年(1277年)8月乙丑、大都に太廟を建てることを詔した。博士は「古の廟制はおおむね都宮別殿とし、西漢もまた各々廟を立てたが、東都は倹を尚んで七室同堂とし、後世遂にこれを改めることができなかった」と言上。
  • 至元15年(1278年)5月9日、太常卿が上都より還り廟制を議す。博士の「同堂異室は非礼」との言に基づき、古今の廟制を図に画き説を貼って博士李天麟に上都へ齎らせ議させた。要点は次の通り。
  • 都宮別殿・七廟九廟の制:祭法に「天子は七廟を立て三昭三穆と太祖の廟で七」とある。晋の博士孫毓は「外に都宮を為し内に各々寝廟あり、別に門垣を有し、太祖は北にあり左昭右穆をもって次第南に至る」とした。前廟後寝は人君の居のあり方(前に朝、後に寝)に象り、廟には主を蔵して四時に祭り、寝には衣冠几杖を置き生前の具に象って新物を薦める。天子・太祖は百世不遷、宗もまた百世不遷、高祖以上は親尽きれば遞遷し、昭は常に昭、穆は常に穆とする。同じ都宮であれば昭は常に左、穆は常に右で序を失わない。一世一廟であれば昭は穆を見ず穆は昭を見ないが、各々その尊を全うできる。必ず祫享して太祖の廟に会してから尊卑の次を序する。父子は宮を異にし祖禰は廟を異にするのは、事亡を事存の如くする義を尽くすためである。漢儒の七廟九廟の説には2説あり、韋玄成らは「周の七廟は后稷始封と文王武王受命により3廟が不毀で親廟4を加え7」とし、劉歆の説では「周は武王克商以後、后稷を太祖とし高圉・亜圉の二廟を公叔・太王・王季・文王の二昭二穆の上に増立し既に7廟、懿王の代に文世室を三穆の上に、孝王の代に武世室を三昭の上に立て9廟となった」とする。先儒の多くは劉歆説を是とする。
  • 同堂異室の制:後漢の明帝は倹を遵び自ら抑え、寝廟を起こさず光武廟の中に主を蔵し更衣別室とする遺詔を残し、章帝もまたこれに倣った。後世は敢えて加えず公私の廟はいずれも同堂異室の制を用いた。先儒朱熹は「太祖の位が孫子と同列に下り一隅に僻処すれば七廟の尊・群廟の神を見るに足りず、また上は祖考を厭し自ら一廟の主となり得ない」と述べ、人情に照らせば生前は九重に居り壮麗を極めるのに、祭は一室に過ぎず、あるいは鼎俎を容れる地もなく数を隠損することは子孫の心に不安をもたらす、命士以上でも父子婦姑は住まいを異にし尊卑の序を謹むのに、天子ともあろう者が祖宗神位数世を同処させるのは事亡を事存の如くする人子の意に反すると述べた。
  • 至元16年(1279年)8月丁酉、江南で得た玉爵及び坫あわせて49事を太廟に納めた。
  • 至元17年(1280年)12月甲申、太廟に遷ることを告げた。癸巳、承旨和爾果斯・太常卿達春・托果斯らが祏室内の栗主8位及び日月山板位・聖安寺木主をすべて遷した。甲午、和爾果斯・太常卿色埒黙が百官を率い太祖・睿宗二室の金主を新廟に奉安し大享を行った。乙未、旧廟を毀した。
  • 至元18年(1281年)2月、博士李時衍らが「歴代の廟制はいずれも異なるが、祖宗を尊ぶには都宮別殿の制に従い、倹約を崇めるには同堂異室の制に従うべき」と議した。3月11日、尚書段諾海及び太常礼官が「始めに七廟を議したが、正殿・寝殿・正門・東西門は既に建てられたので、東西六廟は改めて造る必要はなく、余は太常寺の新図に依り建てるべき」と奏し、前廟後寝、七室に分かつ制とした。
  • 至元21年(1284年)3月丁卯、太廟の正殿が成り、神主を奉安。9月、廟室に鉄網を掛け釘鏨・籠門で告成した。
  • 至元22年(1285年)12月丁未、皇太子が薨じた。太常博士は前代の太子薨去の例(梁武帝は蕭統に昭明の謚、斉武帝は蕭長懋に文恵の謚、唐憲宗は寧に恵昭の謚、金世宗は允恭に宣孝の謚を贈り、別廟を建て神主を奉じ中祀に准じ登歌を陳ね令丞を置いて歳ごとに洒掃した)を議し、いずれも累代の典として追美されたとし、中書翰林の諸老臣もまた謚を加え別廟に奉祀すべきと議し、遂に「明孝太子」の謚を贈り主は金を用いて作った。至元25年(1288年)冬享には白馬1を送った。至元30年(1293年)10月朔、皇太子を太廟に祔した。
  • 至元31年(1294年)成宗即位、皇考を追尊して皇帝とし廟号を裕宗とした。
  • 元貞元年(1295年)冬10月癸卯、太廟に事あり。中書省臣が「昨年、世祖皇后・裕宗が廟に祔されるにあたり綾を以て玉冊に代えたが、今、玉冊・玉宝が成ったので各室に納めることを請う」と言上。帝は「親享の礼は祖宗も未だ行ったことがない。玉冊を奉じて来て朕自ら祝せよ」と命じ、献官に迎導して廟に入らせた。
  • 大徳元年(1297年)11月、太保伊徹察喇らが「廟享に馬を増用する」ことを奏請、制はこれを可とした。
  • 大徳2年(1298年)正月、初めて太廟で特祭し、馬1・牛1・羊鹿野豕天鵝各7他を用いた。特祭の始まりである。
  • 大徳4年(1300年)8月、皇妣皇后を祔した。
  • 大徳6年(1302年)5月戊申、太廟の寝殿が災に遭った。
  • 大徳11年(1307年)武宗即位、皇考を追尊して皇帝とし廟号を順宗とした。太祖室を中に置き、睿宗は西第一室、世祖は西第二室、裕宗は西第三室、順宗は東第一室、成宗は東第二室とし、追尊された先元妃を皇后として成宗室に祔した。

武宗期

  • 至大2年(1309年)春正月乙未、尊号を受け太廟に恭謝したのが親祀の始まりである。10月、太祖・睿宗の尊謚を加えるため天に請う日を択び、光献皇后・荘聖皇后の尊謚を廟に請う日を択び、金表神主を改製して尊謚・廟号を題写した。12月乙卯、太廟に親享し玉冊・玉宝を奉じ、太祖聖武皇帝に「法天啓運」の尊謚と「太祖」の廟号を加え、光献皇后に「翼聖」を加え、睿宗景襄皇帝に「仁聖」を加え廟号は睿宗のまま、荘聖皇后に「顕懿」を加えた。旧制の金表神主は櫝で両旁に貯えていたが、これ以後、主はすべて金を範型して作ることとし、金表の制に依った。

仁宗期

  • 延祐7年(1320年)仁宗が升祔し、廟室を増置することとなった。太常礼儀院が博士に歴代の典故を検討させ礼部に移書、中書が「古の天子は7代を祭り、兄弟は同じく1代となる。廟室にはいずれも神主がある。廟室を増置すべき」と集議した。また「大行皇帝が太廟に升祔するにあたり、七室にはいずれも神主があり室を増やす余地がないため、前代の典故に依り権に廟内に幄座を設け南面させて安奉することとなった。第七室の近南対室の地は東西1丈5尺あり、幄座を除いて残り5尺でも行礼に支障がない」として、綵で殿を結び武宗室の南に置き権に神主を奉じた。10月戊子、英宗が四時に太廟を躬祀しようとし、太常礼官と中書翰林集賢等官に礼制を議させた。制は「これは追遠報本の道である。朕の労を理由に損なうことのないよう、その一に典礼を遵え」とした。丙寅、中書が躬謝太廟の儀注を進めた。11月丙子朔、帝は斎宮に御し、丁丑、法駕儀衛を備え太廟を躬謝した。櫺星門に至り駕を止め、有司が輦を進めたが皇帝は乗らず歩いて大次に至り袞冕を服して端拱し禮儀使が祝の署名を請うのを待った。皇帝は御座を降り正立して署名し、読祝の際、御名を高く読み上げると仁宗室に至るたびに歔欷流涕し、左右も皆感動した。退いて西神門に至り殿中監が圭を受け取り階を降りて後、授けた。甲辰、太常が時享太廟の儀式を進めた。

英宗期

  • 至治元年(1321年)正月乙酉、初めて太廟垣の西北に大次殿を建てることを命じた。丙戌、初めて四孟月に時享・親祀太室を行った。礼が成り大次に坐して群臣に「朕は祖宗の丕緒を纘承し、夙夜祗慄している。歳ごと4祀のみ人に代行させては如在の誠を実現できず実に安んじられない。今後は必ず歳ごと親祀し朕の身を終える」と語った。5月、中書省臣が廟制の事を議し、御史台・翰林院・太常院の臣に集議させた。「前代の廟室の多寡は一定でなく、晋は兄弟同室で正室14間、東西各1間を増した。唐は9廟、後に11室に増した。宋は18室に増し東西夾室各1間で祧主を蔵した。今、太廟は8室に分かれるが兄弟で1世となるのは6世に過ぎない。世祖の建てた前廟後寝は、往歳に寝殿が災に遭ったため、今の殿を寝とし別に前廟15間を作り、中3間を通じて1室とし太祖神主を奉じ、余は次第に室とするのが宜しい」との太常廟制の議に対し、制は「善し、来歳に営め」とした。
  • 至治2年(1322年)春正月丁丑、初めて鹵簿を陳ね太廟に親享した。3月23日、新作の太廟正殿の完成を理由に夏秋二祭を権に停止した。秋8月丙辰、太皇太后が崩じた。太常院官が「国哀は日を月に代えて12日の外に祀事を挙げるべき」と奏したが、有司は10月戊辰に太廟に事があるのに聖裁を取ろうとした。制は「太廟の礼は廃すべきでない。迎香は楽を去るのがよい」とし、また太廟の興工が未だ終わらず宮県の楽を陳ねるのに支障があると言われたため、登歌のみを用いることとなった。
  • 至治3年(1323年)春3月戊申、昭献元聖皇后を順宗室に祔した。夏4月6日、上都分省参議蘇蘇が都堂の旨により太廟夾室に未だ制度がないため、台院等の官に議定させた。博士は爾雅の説(室に東西の廂があるものを廟という)や賈公彦の説(室に東西廂があるものを廟とし、その夾はすべて序にある)を引き、東晋の太廟正室16間で東西儲各1間(儲とは夾室のことか)、唐貞観の故事(遷廟の主を夾室西壁西北3間に蔵す)、宋哲宗が東夾室に奉安し後に一室を増建したが夾室は旧に依った例を挙げ、唐宋の夾室の制度と大差ないとした。「五帝は楽を相い沿わず、三王は礼を相い襲わず」として、今の廟制は古と合わないが権宜として、南北6間・東西両頭2間の廟15間を、唐の南北3間の制に準じ棟まで壘ねて3間とし、壁は紅泥、東西序に南向きの門を今の室戸の制の如く設け、虚前を廂すなわち夾室前堂に準じることとした。6月、上都中書省の奏に「可」の制、壬申、太廟前殿15間のうち東西2間を夾室として南向きとする旨を勅した。秋7月辛卯、太廟が落成した。にわかに国に大故があり晋王が皇帝位に即いた。12月戊辰、皇考晋王を追尊して皇帝とし廟号を顕宗、皇妣晋王妃を皇后とした。庚午、盗が太廟に入り仁宗及び慈聖皇后の神主を失い、壬申、仁廟の二金主を重作した。丙午、御史趙成慶が「太廟の神主を失うのは古今莫大の変事であり、太常礼官が職を恭しくしなかったことに由る。その罪を正して宗廟に謝し神霊を安んずべき」と言上、制は中書に定罪を命じた。

泰定帝期

  • 泰定元年(1324年)春正月甲午、仁宗及び慈聖皇后の二神主を奉安した。丁丑、御史宋本・趙成慶・李嘉賓が「太廟の神主を失った件はすでに旨を得たが、太常の失守の罪を中書に定めさせるべき」と言上。中書は「事は太廟署令にあるが、太常官属は依然として位に居る。昔、唐の陵廟はいずれも宗正に隷し、景陵の門戟を盗み斫った際に陵令丞を貶め宗正卿もまた貶黜された。神門の戟架と太廟の神主とどちらが重いか、その罪名を定め黜罰を顕示して不恪を懲らすべき」として上言されなかった。これに先立ち博士劉致は「礼は宗廟より大なるはなく、宗廟は天下国家の本、礼楽刑政の由って出づる所である。唐虞三代以来これに由らないものはない。聖元は朔陲に龍興し積徳累功すること百余年、宗廟にはいまだ一定の制がない。まさに聖天子継統の初め、一代不刊の典を定め万世の法程とすべきはまさに今日にある。周制では天子は7廟、3昭3穆、昭は東、穆は西に処し父子親疎の序を別ち乱れないようにする。聖朝は唐宋の制を取り9世と定めたが、旧廟は8室で6世を為し昭穆が分かれず父子が並坐するのは礼経に合わない。新廟の制は15間で東西2間を夾室とし、太祖室はすでに中にあるので唐宋の制は依るべきでなく、ただ昭穆をもって列すべきで、父を昭、子を穆とすれば睿宗は太祖の東に居て昭の第一世、世祖は西に居て穆の第一世、裕宗は東に居て昭の第二世、兄弟が共に1世となるので成宗・順宗・顕宗の3室はいずれも西に居て穆の第二世、武宗・仁宗の2室はいずれも東に居て昭の第三世とすべきである。昭の后は左、穆の后は右に居る(西は左を上、東は右を上とする)。このようにすれば昭穆分明で秩序があり礼経に違わず万世の法となし得る。もし累朝の定制のまま新廟に室次を依り遷安すれば、顕宗が順宗の上に、順宗が成宗の上に躋ることになる。礼で言えば、春秋の閔公は無子で庶兄の僖公が代わって立ち、その子文公が僖公を閔公の上に躋らせたのを史は『逆祀』と称し、定公に至ってその序を正し『先公に事うるに従う』と書いた。僖公は有位の君であってもなお故君の上に居るべきでないとされたのに、況んや未だ正位したことのない者をや。国家は右を尊とするというが、古人の尚ぶところは左右一定でなく、古人は社稷を右に宗廟を左にした。国家の宗廟もまた東方に居るのに、宗廟を建てる方位が礼経に依りながら昭穆は礼経に応じないのはおかしい。今の朝賀・祭祀でも宰相・献官が分班して立つとき、西に居れば左を尚び東に居れば右を尚び、行礼就位すれば西の者は右を尚び東の者は左を尚ぶ」と述べた。致は博士としてこの職にあり、宗廟の事について建言すべき立場だが、事は重大なので使院を通じ書を移し集議して旨を取るべきとした。4月辛巳、中書省臣は「世祖皇帝が太廟を建てた際、太祖皇帝は中に居て南向き、睿宗・世祖・裕宗の神主が次第に西室に祔され、順宗・成宗・武宗・仁宗が次第に東室に祔された。近ごろ集賢翰林太常の諸臣は『国朝が太廟を建てるのは古制を遵ぶが、古は左を尚ぶのに今は尊者が右に居るのは少しく屈するもので後世に示す所以でない。太祖皇帝は中に居て南向き、睿宗皇帝の神主を左の一室に祔し、世祖は右の一室に祔し、裕宗は睿宗室の左に祔し、顕宗・順宗・成宗は兄弟であるから次第に世祖室の右に祔し、武宗・仁宗もまた兄弟であるから裕宗室の左に祔し、英宗は成宗室の右に祔すべき』と言う。臣らはその議がほぼ正しいと考え、室次を絵図にして献ずる。陛下の裁択を仰ぐ」と言上、これに従った。5月戊戌、顕宗・英宗を祔し合わせて10室となった。
  • 泰定4年(1327年)夏4月辛未、盗が太廟に入り武宗の神位及び祭器を失った。壬申、武宗の金主及び祭器を重作した。甲午、武宗の神主を奉安した。

文宗期

  • 天暦元年(1328年)冬10月丁亥、顕宗室を毀した。重ねて至元の6年(後至元6年、1340年)6月、文宗室を毀すことを詔した。宗室の事の本末因革の概略は以上の通りである。

馬湩の祭

  • 大祭祀では特に馬湩を貴び、事あるごとに太僕司の挏馬官が尚飲する者に命じ、革嚢に盛って送らせた。馬牲は三牲と同様に俎に登せて割奠し、その饌もまた籩豆と共に設けられる。牲盤を奠じて馬湩を酹ぐ際には、蒙古太祝が第一座に升って詣で帝后の神諱を呼び、祭を行う年月日数・牲斉品物を告げ祝語を致し、以下順に各室に詣でて同様に行う。礼が終われば割奠の残りを南櫺星門外に撒く。これを「抛撒茶飯」と称し、国礼を重んじることを表す。
  • 至元初め、金の太祝であった魏友諒という者が朝に仕え、中書に太常寺の宗廟奉祀の礼に備わらない数事があると言上した。礼部が太常に移し前代の典礼を考証して友諒の言を勘したところ、いずれも非とされた。これにより礼官はしばしば討論を重ねた。割奠の礼は初め太常卿がこれを設けたが、僧格が初献となってから三献等の官が同じく設ける儀となった。博士は「祭品を陳ね罇罍等を実れることは献官が関与すべきでない。これを親設した上でまた升殿するのは誠慤専一の道に反するのではないか。また大礼使等の官はなおさらその職ではない」と議した。大楽署長は「割奠の礼には別に楽章を撰すべき」と言ったが、博士は「三献の礼はまさに古制に依っており、もし割肉・葡萄酒・馬湩に別に楽章を撰せば、また一献をなすことになる」と議した。また「膋・膟を燔く儀は今の燒飯の礼に合致し廃すべきでない、形塩・糗餌粉餈・&KR0755;食糝食は古のものではなく、雷鼓・路鼓と播鼗の制は異なる、摂祀の大礼使が終夕堅く立つのはその義に非ず」と議し、礼を知る者は皆この言を取った。英宗の初め、博士はまた「今の冬祭は烝である。天子が親ら太室に裸し功臣を配享すべき」としたが、事は果たされなかった。

廟制

  • 至元17年(1280年)に大都に新たに建てられた廟は前廟後寝。正殿は東西7間・南北5間で内に7室を分かつ。殿陛は二成、三階(中を泰階、西を西階、東を阼階)。寝殿は東西5間・南北3間。四隅に重屋の角楼を環らし、正南・正東・正西の宮門はいずれも3門で神門と号す。殿下の道は東西の神門に直結する横街、南門に直結する通街と呼び、通街を甎で舗し両旁に井2つを設けて亭で覆う。宮城の外は崇垣で繚らす。饌幕殿7間は宮城南門の東南向き、斎班庁5間は宮城の東南西向き、省饌殿1間は東城東門やや北の南向き、初献斎室は宮城の東・東垣門内やや北の西向き(その南は亜終献・司徒・大礼使・助奠・七祀献官等の斎室でいずれも西向き)、雅楽庫は宮城西南東向き、法物庫・儀鸞庫は宮城の東北で南向き、都監局はその東やや南で西向き。東垣内は別院とし内神厨局5間(北向き)、井(亭付き)、酒庫3間(西向き)、祠祭局3間(北向き、神厨局に対する)、百官厨5間(西向き)を配する。宮城の南にはまた門があり中神門と相い対し、左右に連屋60余間を築き、東は斎班庁に及び西は雅楽庫に至る諸執事の斎房とし崇墉で外を環らす。東西南に櫺星門3を開き、門外の馳道は斉化門の通衢に抵る。至治元年(1321年)廟制の増広が議され、至治3年(1323年)に旧廟の前に大殿15間を別建し旧廟を寝殿とし、中3間を通じて1室、余10間を各々1室とし、東西の両旁の際牆に各1間の夾室を留めた。室はいずれも東西横闊2丈・南北入深6間(毎間2丈)。宮城は南に展げ、新たに井2を殿南に鑿ち亭を作った。角楼・南神門・東西神門・饌幕殿・省饌殿・献官百執事斎室・中南門・斎班庁・雅楽庫・神厨祠祭等の局はいずれも南に徙し、大次殿3間を宮城の西北に建て、東西の櫺星門もまた南に徙した。東西櫺星門内には鹵簿房4所、通じて50間を設けた。

神主

  • 至元3年(1266年)、初めて太保劉秉忠に古制を考えて神主を作らせた。高さ7尺2寸、上頂の円径2寸8分、四廂は剡(そ)ぎ1寸1分、上下四方に穿孔(中央通孔径9分)、光漆で背に尊謚を題す。上匱・下趺の底蓋はいずれも方形で、底は下から上へ、蓋は上から下へ被せる。底・趺の方は各1尺、厚さ3寸で、いずれも元祐古尺の図に準ずる。主及び匱趺はいずれも栗木、匱趺はいずれも玄漆を用いる。祏室を設けて帝主を安奉し曲几・黄羅帕で覆う。后主は直几・紅羅帕で覆う。祏室毎室に紅錦厚褥1・紫錦薄褥1・黄羅複帳1・亀背紅簾1(黄羅帯で縁取る)を設ける。至元6年(1269年)12月18日、国師が旨を奉じ木質金表の牌位16(神主とも号す)を造り、大榻・金椅を祏室前に置いて帝位を右・后位を左とし号を面に題し銷金絳紗で籠い、その制は櫝の如くとした。

  • 祝には2種ある。祝冊は親祀に用い、竹で作り毎副24簡、紅絨絛で貫き面には膠粉を塗って飾り、背は絳金綺で飾る。楠木の縷金雲龍匣に蔵し塗金の鎖鑰、紅錦嚢で韜い銷金雲龍絳羅の複いを蒙せる。祝文の撰・書・読はいずれも翰林詞臣が掌る。至大2年(1309年)の親祀の竹冊は長さ1尺2寸・広さ1寸2分・厚さ3分。至治2年(1322年)正月の親祀の竹冊は8副、毎冊24簡、長さ1尺1寸・広さ1寸・厚さ1分2釐。祝版は摂祀に用い、楸木で長さ2尺4寸・広さ1尺2寸・厚さ1分、面背は精潔な楮紙で飾る。祝文は、至元期に太祖室に享する際は「孝孫嗣皇帝臣某」、睿宗室では「孝子嗣皇帝臣某」と称した。天暦期は太祖から裕宗までの4室いずれも「孝曽孫嗣皇帝臣某」、順宗室は「孝孫嗣皇帝臣某」、成宗から英宗までの3室はいずれも「嗣皇帝臣某」、武宗室は「孝子嗣皇帝臣某」と称した。

  • 幣は白繒で作り、毎段の長さ1丈8尺。

牲斉庶品

  • 大祀には馬1(色純なるもの、副あり)、牛1(その角は握るほど、色は赤、副あり)、羊(色は白)、豕(色は黒)、鹿を用いる。馬牛羊豕鹿の牲体は毎室7盤(単室は5盤)、太羹は毎室3、和羹は毎室3鉶。籩の実は毎室12品、豆の実は毎室12品。祀に先立ち貴臣に命じ猟師を率いて鮮獐・鹿・兎を取らせ脯臡醓醢に供する。稲粱を飯として毎室2簠、黍稷を飯として毎室2簋。彜尊の実は毎室11。明水・玄酒は陰鑑を用いて月と井水から取る。鬯は鬱金で作る。五斉三酒は光禄寺で醸す。膟膋・蕭蒿は至元18年(1281年)5月に用いなくなり後に廃した。茅香で酒を縮める。至元17年(1280年)に初めて沅州麻陽県産の包茅を用いた。天鵝(白鳥)・野馬・塔爾巴噶(獾のような姿)・野雞・鶬・黄羊・呼齋爾(鳩のような姿)、湩乳・葡萄酒に国酒を用いて割奠し、いずれも列室に用いる。羊1・豕1、籩の実2は栗・鹿脯、豆の実2は菁菹・鹿臡、簠の実は黍、簋の実は稷、爵尊の実は酒とし、いずれも七祀の位に各用いる。薦新は次の通り:孟春に鮪・野彘、仲春に雁・天鵝、季春に葑韭・鴨雞卵、孟夏に氷・羔羊、仲夏に桜桃・竹筍・蒲筍・羊、季夏に瓜豚・大麦飯・小麦麪、孟秋に雛雞、仲秋に菱芡栗・黄鼠、季秋に梨棗・黍粱・鶿老、孟冬に芝麻・兎鹿・稲米飯、仲冬に麕・野馬、季冬に鯉・黄羊・塔喇布哈を用いる。至大元年(1308年)春正月、太子が薦新に影堂の品物(羊羔炙・魚・饅頭・&KR0008;子・西域湯餅・圜米粥・砂糖飯羹)を増用することを言上し、毎月これを配して薦めた。

祭器

  • 籩12(青巾で羃い、巾には綵雲を繍う)、豆14(1は毛血、1は膟膋を実れる)、登3・鉶3(柶付き)、簠2・簋2(匕箸付き)、俎7(牲体を載せ、いずれも鼎があり後には盤で牲体を貯え盤を俎上に置き鼎は用いない)、香案1(銷金絳羅の衣)、銀香鼎1、銀香奩1、茅苴盤1(沙を実れる、以上はいずれも室内に陳ねる)、燎炉1(炭を実れる)、篚1(蕭蒿・黍稷を実れる)、祝案1(紫羅の衣、祝文を上に置き銷金絳羅で覆う)、雞彜1(舟付き)、鳥彜1(舟・勺付き、春夏に用いる)、斚彜1(舟付き)、黄彜1(舟・勺付き、秋冬に用いる)、虎彜1(舟付き)、蜼彜1(舟・勺付き、特祭に用いる)。雞彜・斚彜・虎彜には明水を、鳥彜・黄彜・蜼彜には鬯を実れる。犠尊2・象尊2(春夏用)、著尊2・壺尊2(秋冬用)、太尊2・山尊2(特祭用)はいずれも坫・勺があり白布巾(黼文を繍う)で羃う。著尊2・山罍2はいずれも坫があり羃を加える(以上は室外に陳ねる)。壺尊2・太尊2・山罍4はいずれも坫があり羃を加え莞席を藉いて殿下に北向き西上で並べ、設けるが酌さない(毎室同じ)。通廊には御香案1(銷金黄羅の衣)、銀香奩1(御祝香を貯え銷金帕で覆う)を殿中央に陳ねる。罍洗所には罍2・洗2(1は爵を滌ぎ1は盥潔に供する)、篚2(璋瓚・巾を実れる、塗金銀の爵7)。七祀の神位には籩2・豆2・簠1・簋1・俎1・爵1(坫付き)、香案1、沙池1、壺尊2(坫・羃付き、七祀いずれも同じ)、罍1・洗1・篚1がある。中統以来、金・宋の祭器を雑用してきたが、至治初め(1321年)に初めて江浙行省で新器を造り、旧器はすべて几閣に置いた。

親祀時享の儀(その目は8項目)

  1. 斎戒:祀の前7日、皇帝は別殿で4日間散斎(治事するが作楽・刑名事の奏上・行刑を停める)、致斎3日(2日は大明殿、1日は大次)を専心祀事にあてる。致斎前日、尚舎監が大明殿西序に東向きの御幄を設ける。致斎の日、諸衛の屯列、通事舎人による侍享執事官の奉迎、侍中の「中厳」「外辦」奏、皇帝の通天冠絳紗袍での出御、大明殿での坐、解厳といった一連の手順を経る。応祀官は中書省で誓戒を受け散斎4日致斎3日とする。光禄卿が明水・明火を取り爨・尊に供する。
  2. 陳設:祀の前3日、尚舎監が大次を西神門外道北に南向き、小次を西階西に東向きに設ける。版位を西神門内横街南に東向き、飲福位を太室尊彜所稍東に西向き、黄道裀褥を大次前から西神門・西階・殿門外まで、御洗位を御版位東稍北に北向き、亜終献位を西神門内御版位稍南に東向き(罍洗はその東北)、亜終献飲福位を御飲福位後稍南に西向きに設ける。八宝の黄羅案を西階西に設ける。享官・宮県楽・省牲位・諸執事公卿御史位、殿上下及び各室の簠簋籩豆尊罍彜斚等の器もいずれも常儀の如く設ける。
  3. 車駕出宮:祀の前1日、所司が法駕鹵簿を崇天門外に、太僕卿がその属を率い玉輅を大明門外に備える。千牛将軍が刀を執り輅前に北向きに立つ。侍享執事官は太廟の祀所に先詣。侍中の「中厳」「外辦」奏を経て、皇帝は輿から輅に乗り換え、太僕が御し導駕官が歩導する。崇天門外・大明門外で乗馬・乗輅の別、百官の上馬・下馬を経て太廟に至り、廟門外で輅を回し将軍が下りて立ち、侍中の奏を経て皇帝は輅を降り歩いて廟門に入り、稍西で輿に乗り大次に至り入次する。祝版は禮儀使が奏請し皇帝が署名した後、太廟令が受け各室の祝案に奠じる。
  4. 省牲器:祀の前1日未後3刻、廩犠令丞・太官令丞・太祝が牲を位に就ける。太常卿・光禄卿丞・監祭礼官らが就位し、東神門北偏門より入り東階を升り、各位で滌濯を視て司尊彜が羃を挙げて「潔」と称する。太常卿が省牲、廩犠令が牲を巡り「充」、太祝が「腯」と称し、蒙古巫祝が致詞する。省饌位でも同様の手順を経て太常卿が省饌し、廩犠令丞・太祝が牲を厨に牽いて太官令に授け、光禄卿丞・監祭監礼が厨で鼎鑊の滌漑を視る。太官令が宰人を率い鸞刀で牲を割き、祝史が毛血を取り毎位共に1豆に実れ、肝を鬱鬯で洗い膟膋を取り毎位共に1豆に実れ各位の饌室内に置く。庖人が牲を烹る。
  5. 晨裸:祀の日丑前5刻、諸享陪位官が各々その服を服し、光禄卿・良醖令・太官令が籩豆簠簋尊罍を常儀の如く実れる。大楽令が工人・二舞を率いて入り、御史・博士及び執事者が就位する。司徒以下が升殿し分香・設酒を常儀の如く行う。太常官・御史・博士が升殿し陳設を視た後、太廟令・太祝・宮闈令が升殿し太祝が帝主・宮闈令が后主を出す。御史以上の官が升殿し当陛近西で北向きに立ち、奉禮が「奉神主」を賛し諸官・執事者は再拝、就位する。亜終献等の官が南神門東偏門より入り就位する。「有司謹具請行事」の合図で協律郎が挙麾し宮県楽(思成之曲、黄鍾宮・大呂角・太簇徴・応鍾羽)が9成奏され文舞が舞われる。楽が終わろうとする頃、侍中が「中厳」を版奏し皇帝は袞冕を服し、禮儀使の「行礼」奏請の後、皇帝は西神門から入り鎮圭を執って版位に至り再拝する。盥洗位・爵洗位で盥手・洗瓚し、升殿して太祖室の尊彜所で酌鬯(鬱鬯)を行い、太祖神座前で裸地(鬯を地に灌ぐ)し再拝する。第二室以下も同様に裸する。終われば版位に還り小次に入る。
  6. 進饌:皇帝が裸を終えると、司徒が饌を迎え、太官令が斎郎を率い厨で牲体を盤に設け対で挙げて運び、司徒・太官令が斎郎を率い饌を升殿・奉奠する。太官令が割牲官を率い各室で牲体を割き俎上に置く。
  7. 酌献:皇帝が盥洗・爵洗の後升殿し、太祖室の酒尊所で犠尊の泛斉を酌み、太祖神位前で三上香・三祭酒・馬湩の祭を行い、司徒が奉じる牲盤を受けて神案上に奠じ、蒙古祝史が致辞する。読祝の後、再拝し次室以下も各室の楽を奏して同様の儀を行う。飲福位で福酒・胙肉黍稷飯を受け再拝の後、版位に還り小次に入る。文舞が退き武舞が進む。亜献官が阼階から升壇し酌献するが常儀の如く(読祝はしない場合あり、福酒を受ける)、終献も同様に行う。七祀の献官も各々盥洗・酌献の後、退く。徹籩豆・賜胙の後、奉禮が版位への還御を賛し、送神楽(保成之楽)が奏され、皇帝は再拝し禮儀使の「礼畢」奏の後、大次に還る。
  8. 車駕還宮:皇帝が大次に還り解厳、通天冠絳紗袍に着替え、法駕鹵簿・侍祠官が太廟櫺星門外に序立、皇帝は輿から輅に乗り換え、来た時と逆の順で百官の上馬・下馬を経て崇天門・大明門を経て還宮する。太廟令が殿の戸を閉め退く。祝冊は匱に蔵される。