元史卷七十二 祭祀志第二十三 祭祀一
志の序(祭祀志総論)
- 礼における祭祀の由来は遠い。天子は天地・宗廟・社稷の主であり、郊社・禘嘗の祭祀は「報本」(根本に報いる)の意にあり、殊更に何かを求めて行うものではない。ゆえにその礼は誠を貴び質を尊び、根本に立ち返り古に循うことを旨とする。
- 漢は秦の弊を承け、周礼の郊廟の制を用いず、巡守・封禅や方士・祠官の説が興った。兄弟が相継いで一代を成し統緒が乱れ、末には南北二郊を合一したが、唐宋の盛時をもってしても正すことができなかった。籩豆(祭器)を扱う有司の職掌だけでは仁人孝子の心を尽くせない。
- 元の五礼のうち、祭祀だけはやや古に稽(かんが)えており、郊廟の儀は礼官が日々詳慎に考証し、旧礼を廃したことはない。ただし世祖以来、皇帝はしばしば親祭を難とした。英宗は親郊の意があったが果たせず、久しくして文宗の代・至大年間に至ってようやく成った。北郊を立てる議は大臣により起こされたが中断し、以後廃れて行われなくなった。
- 武宗は廟に親享すること3度、英宗は5度。晋王は在位4年、一度も廟見しなかった。文宗以後はまた親享するようになった。仏教・道教への祈祷や寺院造営には力を尽くした一方で、天地祖宗の祭祀を軽んじたのではないか、との評もある。北方の風俗は天を敬い鬼を畏れ、巫祝が「祭る対象を実際に見て喜怒を知る」と称するため、天子は幽明の理を明察できなければ礼俗の是非を弁じ得ない、との説もある。
- 憲宗が天・日・月・山を祭った日以来、追崇された祖先(所生)は太祖と並べ配享された。世祖が建てた太廟では、皇伯卓沁・察罕台は家人の礼をもって列室に祔られた。しかし太宗・定宗は天下を治めた君でありながら廟享を受けられず、憲宗もまた祀られなかった。この因襲の弊は、礼官の議論の及ぶところではなく、況んや父の位を継がず兄弟が相共に一世をなしたことに、前代に徴すべき先例があろうか。
- 郊廟は国の大祀であり、その本源からしてこの有様であるから、中祀以下は疎略があっても言うに足りない。天子が親ら遣使して致祭するものは3つ(社稷・先農・宣聖)。嶽鎮海瀆は使者が璽書を奉じてその地に赴き行事し、「代祀」と称する。有司の常祀は5つ(社稷・宣聖・三皇・嶽鎮海瀆・風師雨師)。非通祀は5つ(武成王・古帝王廟・周公廟・名山大川忠臣義士の祠・功臣の祠)で、大臣の家廟はこれに含まれない。日星の祭は司天台で行い、回回司天台は禜星(星に祈る祭)を職掌とした。五福太乙には壇畤があり道士がこれを主宰した。以上、詳細はすべて『太常集礼』に記され、『経世大典』の礼典篇はさらに備わっている。歴朝の実録と六条政類を参照し、その因革を序し成制を録して祭祀志を作る。
郊祀上
建国以前の拝天の礼
- 元は朔漠に興り、代々拝天の礼があった。衣冠は質を尚び、祭器は純を尚び、帝后が親ら之を行い、宗戚が助祭した。その意は幽深玄遠で、報本反始は自然に出るものであり、強いて行うものではなかった。
憲宗期
- 即位2年(1252年)秋8月8日、冕服を着し日月山にて拝天。11日、孔子の子孫・孔元措の言に従い昊天后土を合祭。初めて大合楽を行い牌位を作り、太祖・睿宗を配享した。甲寅の歳、庫庫諾爾の西で諸王を会した。丁巳秋、凖諾爾に駐蹕、いずれもその地で祭天した。
世祖期
- 中統2年(1261年)夏4月乙亥、北方親征の途上、旧桓州の西北で親ら天を祀り、馬湩(馬乳酒)を灑いで礼とした。皇族以外は参加を許されず、その様式は当初のままであった。
- 至元12年(1275年)12月、尊号を受けるにあたり使者を遣わし天地に予告。太常が唐・宋・金の旧儀を検討し、国都の南、麗正門東南7里に祭壇を建て、昊天上帝・皇地祗の位を設け二行一献の礼とした。以後、国に大典があれば南郊で告謝することとなった。
- 至元13年(1276年)5月、宋平定を天地に告げるため使者を遣わす。中書が太常に儀物を議定させて奏上、制は「国礼をもって行事せよ」とした。
成宗期
- 至元31年(1294年)成宗即位、夏4月壬寅、初めて都城南7里に壇を作った。甲辰、司徒諤都岱を遣わし百官を率いて大行皇帝の請諡を行わせた。これが南郊で告天・請諡を行う始まりとなった。
- 大徳6年(1302年)春3月庚戌、南郊で昊天上帝・皇地祗・五方帝を合祭。左丞相哈喇哈斯を遣わして摂事させた。これが摂祀天地の始まりとなった。
- 大徳9年(1305年)2月24日、右丞相哈喇哈斯らが言上した。「昨年は地震・星変・雨澤の時期の狂いがあり、歳々不作が続いた。祈天保民の事について、天子が親祀するものは天・祖宗・社稷の3つ。今、宗廟社稷は歳時に摂官が行事している。祭天は国の大事であり、陛下は未だ親祀に及ばずとも、宗廟社稷のように遣官摂祭させ、歳ごとに冬至の儀物を有司にあらかじめ備えさせ、期日に至れば奏上させるべきである」。制は「その言は是なり、儀物をあらかじめ備え事に備えよ」とした。これを受け翰林・集賢・太常の礼官が中書に会し集議。博士は疏して「冬至の圜丘は昊天上帝のみを祀るもので、西漢元始年間に初めて天地合祭となり、以後東漢から宋まで千余年、分祭・合祭の説は定まっていない」と述べた。集議では「周礼では冬至に圜丘で天を礼し、夏至に方丘で地を礼する。時も異なれば礼楽も異なる。王莽の制は法とすべきでない。今は唐虞三代の典に循い、昊天上帝のみを祀るべきで、方丘の祭地の礼は続いて議すべし」とした。壇の制については、周礼の三成の制に依るとしたが、周礼の疏には各成の広さの尺度が示されていないため、四成の制から一成を減じて陽奇の数(三成)に合わせ、各成の高さは8尺1寸(乾の九九に合わせる)、上成は縦横5丈、中成10丈、下成15丈、四方に陛を設け各12級、外に二重の壝を設け、内壝は壇から25歩、外壝は内壝から54歩離し、壝には各4門を設け、壇は丙巳の地(陽位)に設けることとした。冠服については宗廟で用いる冠服の制に依ることとした。楽については周礼大司楽の説(圜鍾を宮、黄鍾を角、太簇を徴、姑洗を羽とし、雷鼓・雷鼗・孤竹の管・雲和の琴瑟・雲門の舞を冬至の日に地上の圜丘で奏すれば天神が皆降る)を引き、音律に深く通じた者を求めて五声八音を司らせるべきとした。
- 夏4月壬辰、中書がまた集議。博士は旧制で神位版は木製と言うが、中書は蒼玉に金字、白玉の座に改めることを議した。博士は「郊祀は質を尚ぶゆえ旧制に依るべし」とし、結局、木主(長さ2尺5寸、幅1尺2寸、上円下方、丹漆金字、松柏材、紅漆匣に納め黄羅の帕で覆う)を用いることとした。製作後、これをどう蔵すべきかが議論となり、議者は「神主は廟にあるものだが、今は壇で祀り、対越して上にあるもので他の神とは異なる。よって所製の神主は用いない」とした。
- 7月9日、博士がまた「古の祀天の器は陶匏を用い、席は藁鞂を用いたが、漢の甘泉雍畤の祀以来、後漢・晋・魏・南北二朝・隋・唐と、壇壝・玉帛・礼器・儀仗は日々繁縟となり、次第に古の尚質の意を失った。宋・金は概ね唐制に循ったが、経典に照らせば必ずしも全て合致していない。それでも当時の名儒が輩出し、経に依拠して定めた。今は古今を酌して礼を行うのが宜しい」と述べ、唐・宋・金の親祀・摂行の儀注と雅楽の節次を検討し集議に従うこととした。太常は「郊祀の事は聖朝が金・宋を平定して以来、挙行する暇がなかった。今、厳修しようとしても一挙に大備することはできない。まずは古今の儀を酌して後の則を垂れるべきで、中書が翰林・集賢の礼官及び明礼の士と講明し取捨するのが宜しい」と議した。中書の集議は「合わせ行う礼儀は草創で全て備えられるものではない。唐宋にはいずれも摂行の礼があり、従祀・受胙以外の一切の儀注は悉く唐制に依り修めよ」とした。
- 8月12日、太常寺が「祖を尊び天に配することは礼儀楽章に別に常典があり、当日になって議するのは慌ただしく誤りが生じかねない」と言上。中書省臣は「古より漢人が天下を有すれば、その祖宗は皆天に配して享祭された。臣らは平章何栄祖と議し、宗廟はすでに時祭享に依っている。今、郊祀はただ天のみを祀ることとする」と奏し、制は「可」とした。この歳、南郊の配位は省かれた。
- 大徳11年(1307年)武宗即位、秋7月甲子、御史大夫特古勒徳爾に命じ南郊にて天地に告謝させた。位牌は柏材の素質玄書を用いた。これが即位の告謝の始まりとなった。
武宗期
- 至大2年(1309年)冬10月乙酉、尚書省臣及び太常礼官が「郊祀は国の大礼、南郊の礼はすでに行われたが未だ備わらず、北郊の礼は未だ挙行されていない。今年冬至の南郊は太祖聖武皇帝を配享し、明年夏至の北郊は世祖皇帝を配すべし」と言上、帝はこれを是とした。12月甲辰朔、尚書太尉右丞相・太保左丞相田・司徒郝参政らが重ねて「南郊で圜丘にて天を祭る大礼はすでに行われたが、北郊で方沢にて皇地祗を祭り、あわせて神州地祗・五岳四瀆山林川沢及び朝日夕月を祭ることは国家が崇礼すべきものである。聖明の御世にこれを行わなければ廃弛してしまう」と奏し、制は「その議は甚だ是なり、即刻行うべし」とした。
至大3年(1310年)
- 春正月、中書礼部が太常礼儀院を経て博士に北郊従祀・朝日夕月の礼儀を擬定させた。博士李之紹・蔣汝礪は疏して、方丘の礼(夏は5月、商は6月、周は夏至に行う。丘は国の北にあり、礼神の玉は黄琮、牲は黄犢、幣は黄繒を用い后稷を配す)を按じ、方壇の制について漢は都城から4里に壇を設け四陛、唐は宮城の北14里に八角三成の方壇(各成の高さ4尺、上部の広さ16歩、上等陛広8尺、中等陛1丈、下等陛広1丈2尺)を設けたこと、宋は徽宗の代に再成に定めたことなどを述べ、歴代制度は異なるが三成の式を出るものはないとし、坤数の六を取る義から都城の北6里、壬地に善地を選び、方壇三成四陛、外に三重の壝を設け、外壝の外は四面をやや低くして沢中の制に応じ、宮室・墻囲・器皿の色はすべて黄とし、(唐制の)再成八角八陛は古制でなく用いがたいとした。神州地祗以下の従祀は漢以来歴代で一定せず、唐に至って隋制により嶽鎮海瀆・山林川沢・丘陵墳衍原隰を各その方角に従祀させたことから、今もこれに参酌して挙行すべきとした。
- 秋9月、太常礼儀院が再び博士に合用の器物を検討させた。
- 11月丙申、南郊で祭祀を行い、太祖を配し、五方帝・日月星辰を従祀した。
仁宗期
- 延祐元年(1314年)夏4月丁亥、太常寺臣が北郊を立てることを請うたが、帝は謙遜してこれを取り上げず、北郊の議はまた輟(や)んだ。
英宗期
- 至治2年(1322年)9月、南郊祀事を議するよう詔があり、中書平章瑪魯・御史中丞曹立・礼部尚書張埜・学士蔡文淵・袁桷・鄧文原・太常礼儀院使王緯・田天沢・博士劉致らが都堂に会し、9項目を議した。
- 年分:前代は多く三年一祀とし、天子即位が三年に及べば旨に依り欽行する。
- 神位:昊天上帝は冬至の圜丘で祀る天皇大帝であるとの説を巡り、周礼・晋書天文志等を引証。漢魏以来名号は一定でなく(漢初は上帝・太乙・皇天上帝、魏は皇皇帝天、梁は天皇太帝、西晋のみ昊天上帝と称し周礼と合致)、唐宋以来は昊天上帝と天皇大帝を併せ祀ってきたが経典に見えない。大徳9年の中書の円議では周礼に依り昊天上帝のみを祀ることとし、至大3年の円議では五帝を従享させ前代の通祭に依った。
- 配位:孝経の「孝は厳父より大なるはなく、厳父は天に配するより大なるはない」との説を引き、至大3年冬10月3日の旨に依り、11月冬至の合祭南郊で太祖皇帝を配することを円議で取旨した。
- 告配:礼器の説(魯人が上帝に事あらんとするとき、必ず先に頖宮に事あり、后稷に告げる)に依り、告げるには牛1頭を用いる。宋会要では致斎2日目に廟に宿し告配、遣官の犠尊豆籩は一献の礼とする。至大3年11月21日、質明に行事の初献として摂太尉が太常礼儀院官と共に太廟に赴き奏告した例に依り円議で取旨した。
- 大裘冕:周礼司裘の説(大裘は黒羊裘で祀天の質を示す服)や弁師の説(冕服は6種あるが5と言うのは大裘の冕に旒がないため)、礼記郊特牲の「王は袞を被て天に象り、冕に十二旒を戴くのは天の数に則る」との説、陸佃の説(大裘に袞を襲ねる)等を引き、開元・開宝の通礼、宋会要紹興13年の例を参照し、円議で袞冕を用いることに取旨した。
- 匏爵:郊特牲の「郊祭には陶匏の器を用い天地の性に象る」との説に依り、開元礼・開宝礼にも匏爵があった。大徳9年は正配位に坫付きの匏爵を用い、円議では正位は匏爵、配位は飲福に玉爵を用いることに取旨した。
- 戒誓:唐通典所引の礼経(前期10日に百官・族人に親戒)や唐前祀7日・宋会要10日の例、纂要の誓文授受の作法を参照し、円議では管勾が太尉に代わり誓を読み、刑部尚書がこれに莅むこととした。
- 散斎致斎:礼経の前期10日、唐宋金の7日散斎4日致斎3日の例を参照し、国朝の親祀太廟の7日散斎4日(別殿)3日致斎(大明殿)に依り、円議で前と同じ7日とした。
- 藉神席:郊特牲の説(莞簟・蒲越槀鞂を神席に藉く)、漢旧儀(高帝は紺席、成帝は丞相衡・御史大夫譚の言により天地は質を尚ぶとして修飾を廃した)、唐麟徳2年の詔(縑褥に改め上帝は蒼色)、宋の褥を席上に加える例(元豊元年に不設と改める)等を参照し、国朝は大徳9年に正位は藁鞂・配位は蒲越に青繒を冒せ、至大3年には青綾褥・青錦方座を加えた。円議は至大3年の制に依り、席上に褥を設け各方位に依ることとした。
- 犠牲:郊特牲・秦の騮駒・漢文帝の五帝共一牲・武帝の三年一祀太牢・光武帝の天地共犢・隋の上帝配帝蒼犢2・唐開元の牛・宋の正位蒼犢1配位太牢1等の例を挙げ、国朝は大徳9年に蒼犢2羊豕各9、至大3年に馬純色肥腯1頭(正副各1)・鹿18・野猪18・羊18を用いた。円議は旧儀に依り、神位配位には犢の外に馬も用い、その他はすべて既行の典礼に依ることとした。
- 香鼎:大祭には3種あり、煙を始めとして神を招くもので、宗廟では蕭を焚き鬯を灌ぐ(臭陽が牆屋に達するもの)。後世の焚香はこれに基づくが礼経の正式なものではない。至大3年は陶瓦の香鼎50、神座に香鼎・香盒・案各1を用いた。円議は旧儀に依った。
- 割牲:周礼司士の職掌(祭祀に際し牲を割き俎豆を羞める)、礼運の説(腥其俎=豚解して腥のまま7体、熟其殽=体解して爓し21体、体其犬豕牛羊=骨肉の貴賎により分ける)、宋元豊3年詳定礼文所の説(豚解は7、体解は21、犬豕牛羊で体の数は同じ)等を参照し、皇朝は馬牛羊豕鹿すべて至大3年の割牲・国礼に依った。円議は旧儀に依った。
- 大次小次:周礼掌次の説、唐通典(前祀3日、外壝東門内道北南向に大次)、宋会要(前祀3日に大次を外壝東門内道北南向、小次を午階の東西向に設ける)、曲礼の「践阼」の説(天子は阼階=東階を履み行事する)、宋元豊詳定礼文所の説(周礼宗廟には小次を設ける文がない。国朝太廟の儀注では大次小次はいずれも西にあるが、これは国家が右を尚び西を尊としているため)を参照し、円議は祀廟の儀注に依り続けて具議することとした。
さらに未議の事項として次を挙げた。 1. 礼神玉:周礼大宗伯の禋祀の説(煙気の臭いを積柴して実牲体し、或いは玉帛あり)、正義の解釈、崔氏の説(天子が自ら玉帛牲体を柴上に奉じ、詩の「圭璧既に卒す」を引いて燔牲玉とする)等を挙げつつ、正経に燔玉の明証はなく、漢武帝の太乙祠・晋の燔牲幣にはいずれも玉を用いず、唐宋に至って玉を用いるようになったとする。顕慶年間、許敬宗らが旧礼を修めた際「郊天の四圭は宗廟の圭瓚と同じで、事畢われば収蔵し燔列に入れない」とした。宋政和礼制局は「古の祭祀はすべて玉を用いるが、周官典瑞は玉器の蔵を掌り、事あれば出して用い燔瘞したことはない。今後、大祀の礼神の玉は時に出して用い燔瘞しない」と定め、これに従うこととした。玉は煙も気もないため、祭の日はただ神座に奠じ、事が終われば収蔵すべきとされた。 2. 飲福:特牲饋食礼・少牢饋食礼の「嘏」(長・大の意)の説、漢以来の一献纔畢の受嘏、唐開元礼(太尉が未だ堂に升らざるうちに皇帝が飲福)、宋元豊3年改正(亜終献の後に皇帝が飲福受胙)を参照し、国朝至治元年の親祀廟儀注も一献畢に飲福することとした。 3. 升禋:禋(煙)は陽に報いるためのもの。祀天の禋柴は祭地の瘞血・宗廟の祼鬯に相当する。歴代、先に燔いてから祭る場合と先に祭ってから燔く場合があり一定しない。祭の日は楽が六変して牲首を燔く(牲首もまた陽である)。祭が終われば爵酒・饌物・牲体を壇で燎き、天子は望燎する。柴には柏を用いる。 4. 儀注:礼経は秦火の後、残闕脱漏が多く、漢の諸儒がそれぞれの説を執り、後人の宗とするのは鄭康成・王子雝の2家だが、互いに矛盾する。唐開元礼・杜佑通典で五礼はほぼ完備し、宋開宝礼・会要・郊廟奉祠礼文で中間の講明が備わった。金国はおおむね唐宋の制度に依った。聖朝は四海一家となり礼楽の興隆はまさに今日にある。大徳9年の中書集議の礼儀(唐制に依る)と至治元年の祀廟儀注、および今回の新儀と唐制を参酌増損して修め、侍儀司が鹵簿を編排し、太史院が星位・分献官の員数及び行礼・諸執事官の報告をし、至大3年の儀制に依り、亜終献官については取旨することとした。 - この年、太皇太后が崩じたため、冬至南郊の祀事は暫く停止する旨の旨が下った。
泰定帝期
- 泰定4年(1327年)春正月、御史台臣が「世祖より英宗に至るまでいずれも親郊せず、ただ武宗・英宗のみ太廟に親享した。陛下は宜しく郊廟を躬祀すべし」と言上。制は「朕は世祖の旧典を遵守し、大臣に命じて祀事を摂行させる」とした。閏9月甲戌、天地を郊祀し、五岳四瀆名山大川を致祭した。
文宗期
- 至順元年(1330年)、文宗が親郊しようとした。10月辛亥、太常博士が「親祀儀注はすでに具わったが、なお未備の点がある」として、以下を上言した。前代典礼では親郊7日前に百官が郊壇で習儀を行うが、今回は戒誓を受けることと相妨げるため、致斎前一日に告示し、与祭執事者は各々公服で南郊に赴き習儀すべきである。親祀太廟には防禁があるが、郊外は特に厳戒し清粛を貴ぶべきである。与祭執事・斎郎・楽工は従来盥洗の位を設けていないため涓潔の道に反する。饌殿・斎班庁前及び斎宿の場所に盥洗の設備(鍋釜温水・盆杓巾帨)を随宜に置き、必ず盥洗してから行事するよう省諭し、違反者は罰すべきである。祭日には太常院が官を分けて神厨を提調し、割烹を監視し、灯燭・籸燎を管理すべきだが、これまで籸盆等を提調する官はしばしば虚応故事で、物を減らし燭燎が暗くなることがあり、また賜胙の後に献官が退くと所司が便服で徹俎し、壇上の灯燭が一時に皆消え、雑人が壇に登って攘奪することがあり甚だ褻慢である。よって省牲の前に壝門に入る者は皆窄紫の服とし、官のある者は公服とし、四壝の紅門を禁治し、関木・鎖鑰を新造して祭が終われば直ちに閉め、雑人を入れないようにすべきである。藁秸・匏爵は事後、大徳9年の例に依り焼くべきである。壬子、御史台臣が「祭日は股肱の近臣及び諸執事人に飲酒を禁ずべし」と言上、制は「甚だ善し、これを中書に移文して禁じよ」とした。丙辰、監察御史楊彬らが「礼で帝を享くには必ず始祖を配とするが、今、配位を設けるとは聞いていない。礼文に欠けがあるのではないか。また祀の前一日、皇帝は必ず法駕を備え郊次に出宿するが、扈従の近侍の臣は未だこれを経験していないので、加えて戒勅し孚誠を達するべきである」と言上、中書に命じ議行させた。10月辛酉、初めて大裘袞冕を服して南郊で昊天上帝を親祀し、太祖を配した。世祖が六合を混一してより文宗に至るまで凡そ7世、南郊親祀の礼が初めて挙行された。器物儀注はここに至りいよいよ詳慎を加えたのである。
犠牲・儀物の沿革のまとめ
- 至元12年(1275年)冬12月以来、香酒脯臡を用いて一献礼を行い、至治元年(1321年)冬2祭・泰定元年正月まで、これに依った。大徳9年(1305年)冬至には純色馬1・蒼犢1・羊鹿野豕各9を用い、大徳11年(1307年)秋7月には馬1・蒼犢正副各1・羊鹿野豕各9を用いた。至大年間(1308-1311年)の告謝は5回、皇慶(1312-1313年)から延祐(1314-1320年)の告謝は7回、至治3年(1323年)冬の告謝は2回、泰定元年(1324年)2月まで、いずれも大徳11年の数に依った。泰定4年(1327年)閏9月には特に皇地祗に黄犢1を加え、祀の前夜には新たに獵した鹿2頭を送った。至大3年(1310年)冬至の正配位は蒼犢いずれも1、五方帝の犢は各1(その方角の色に依る)、大明(日)は青犢、夜明(月)は白犢いずれも1、馬1・羊鹿野豕各18・兎12を用い、至大4年4月もこれに依った。犠牲・品物・香酒はいずれも国礼を参用したが、その豊約は一定せず、告謝は大祀でなくとも用いる物に差がなかった。これがいわゆる「一挙に大備できなかった」ということであろう。南郊の礼は当初は告祭として始まり、後に大祀となったが、いずれも摂事によるものであった。ゆえに摂祀の儀は特に詳しく記す。
壇壝地
- 壇壝の地は麗正門外の丙位にあり、およそ308畝余り。壇は三成で、各成の高さ8尺1寸、上成の縦横5丈、中成10丈、下成15丈。四方に陛(子・午・卯・酉の四位)を設け各12級。外に二重の壝を設け、内壝は壇から25歩、外壝は内壝から54歩離れ、壝には各4門を設ける。外垣の南には櫺星門3、東西の櫺星門各1。圜壝の周囲は上下とも甎で護られ、内外壝の高さはいずれも5尺、壝の四面にはそれぞれ門3ずつ、いずれも赤く塗る。至大3年(1310年)冬至には、三成では従祀の版位を容れるに足りないため、青繩で一成分を代用し、繩200本(各長さ25尺)を用いて四成の制を満たした。
- 燎壇は外壝内の丙巳の位にあり、高さ1丈2尺、四方各1丈、周囲も甎で護られる。東西南の三方に陛を設け、上部に南向きの戸を開き、上方6尺、深さは柴を容れるに足りる。香殿3間は外壝南門の外やや西にあり南向き。饌幕殿5間は外壝南門の外やや東にあり南向き。省饌殿1間は外壝東南の外やや北にあり南向き。外壝の東南には別院があり、内神厨5間が南向き、祠祭局3間が北向き、酒庫3間が西向き、献官斎房20間が神厨南垣の外にあり西向き。外壝南門の外には中神門5間があり、諸執事斎房60間がこれを翼のように囲み北向き、両翼の端には垣があり東西の周垣に接し、各所に門を設けて出入を便にする。斎班庁5間は献官斎房の前にあり西向き。儀鸞局3間・法物庫3間・都監庫5間は外垣内の西北隅にあり西向き。雅楽庫10間は外垣西門の内やや南にあり東向き。演楽堂7間は外垣内の西南隅にあり東向き。献官厨3間は外垣内の東南隅にあり西向き。滌養犠牲所は外垣南門の外やや東にあり西向き。内犠牲房3間は南向き。
神位
- 昊天上帝の位は天壇の中央やや北、皇地祗の位はその東やや後ろで、いずれも南向き。神席はいずれも繒綾の褥・素座で縁取る。昊天上帝の色はすべて青、皇地祗の色はすべて黄で、いずれも藁秸を藉く。配位は東に居て西向き、神席は綾褥・錦の方座で色はすべて青、蒲越を藉く。
- 従祀の圜壇第一等9位:青帝(寅の位)・赤帝(巳の位)・黄帝(未の位)・白帝(申の位)・黒帝(亥の位)は柏材の素質玄書。大明(日、卯の位)・夜明(月、酉の位)・北極(丑の位)・天皇大帝(戌の位)は神位版を用い丹質黄書。神席は綾褥・座を各その方色に随わせ、いずれも藁秸を藉く。
- 第二等(内官54位):子の位に鈎星・天柱・玄枵・天厨・柱史(数5、西上)、丑の位に女史・星紀・御女(数3、自子至丑皆西上)、寅の位に帝座・嵗星・大理・河漢・析木・尚書(帝座居前行、数6、南上)、卯の位に隂徳・大火・天槍・玄戈・天床(数5、北上)、辰の位に太陽守・相星・寿星・輔星・三師(数5、南上)、巳の位に天一・太一・内厨・熒惑・鶉尾・勢星・天理(天一太一居前行、数7、西上)、午の位に北斗・天牢・三公・鶉火・文昌・内階(北斗居前行、数6、自午至未皆東上)、未の位に填星・鶉首・四輔(数3)、申の位に太白・実沈(数2、北上)、酉の位に八穀・大梁・杠星・華蓋(数4)、戌の位に五帝内座・降婁・六甲・傳舎(五帝内座居前行、数4、自酉至戌皆南上)、亥の位に紫微垣・辰星・娵訾・鈎陳(数4、東上)。神席はいずれも莞席を藉く。内壝外の諸神位もこれと同じ。
- 第三等(中官158位):子の位に虚宿・女宿・牛宿・織女・人星・司命・司非・司危・司禄・天津・離珠・羅堰・天桴・奚仲・左旗・河鼓・右旗(虚宿女宿牛宿織女居前行、数17、自子至丑皆西上)、丑の位に月星・建星・斗宿・箕宿・天鶏・輦道・漸台・敗瓜・扶筐・匏瓜・天弁・天棓・帛度・屠肆・宗星・宗人・宗正(月星建星斗宿箕宿居前行、数17)、寅の位に日星・心宿・天紀・尾宿・罰星・東咸・列肆・天市垣・斛星・斗星・車肆・天江・宦星・市楼・候星・女床・天籥(日星心宿天紀尾宿居前行、数17、南上)、卯の位に房宿・七公・氐宿・帝席・大角・亢宿・貫索・鍵閉・鈎鈐・西咸・天乳・招揺・梗河・亢池・周鼎(房宿七公氐宿帝席大角亢宿居前行、数15、北上)、辰の位に太子星・太微垣・軫宿・角宿・攝提・常陳・幸臣・謁者・三公・九卿・五内諸侯・郎位・郎将・進賢・平道・天田(太子星太微垣軫宿角宿攝提居前行、数16、南上)、巳の位に張宿・翼宿・明堂・四帝座・黄帝座・長垣・少微・霊台・虎賁・従官・内屏(張宿翼宿明堂居前行、数11、西上)、午の位に軒轅七星・三台・柳宿・内平・太尊・積薪・積水・北河(軒轅七星三台柳宿居前行、数9)、未の位に鬼宿・井宿・参宿・天尊・五諸侯・鉞星・座旗・司怪・天関(鬼宿井宿参宿居前行、数9、自午至未皆東上)、申の位に畢宿・五車・諸王・觜宿・天船・天街・礪石・天高・三柱・天潢・咸池(畢宿五車諸王觜宿居前行、数11、北上)、酉の位に月宿・昴宿・胃宿・積水・天讒・巻舌・天河・積尸・太陵・左更・天大将軍・軍南門(月宿昴宿胃宿居前行、数12)、戌の位に婁宿・奎宿・壁宿・右更・附路・閣道・王良・策星・天廐・土公・雲雨・霹靂(婁宿壁宿居前行、数12、自酉至戌皆南上)、亥の位に危宿・室宿・車府・墳墓・虚梁・蓋屋・臼星・杵星・土公吏・造父・離宮・雷電・騰蛇(危宿室宿居前行、数13、東上)。
- 内壝内(外官106位):子の位に天塁城・離瑜・代星・斉星・周星・晋星・韓星・秦星・魏星・燕星・楚星・鄭星(数12)、丑の位に越星・趙星・九坎・天田・狗国・天淵・狗星・鼈星・農丈人・杵星・糠星(数11、自子至丑皆西上)、寅の位に車騎将軍・天輻・従官・積卒・神宮・傅説・亀星・魚星(数8、南上)、卯の位に陣車・車騎・騎官・頡頏・折威・陽門・五柱・天門・衡星・庫楼(数10、北上)、辰の位に土司空・長沙・青丘・南門・平星(数5、南上)、巳の位に酒旗・天廟・東甌・器府・軍門・左右轄(数6、西上)、午の位に天相・天稷・爟星・天記・外厨・天狗・南河(数7)、未の位に天社・矢星・水位・闕丘・狼星・弧星・老人星・四瀆・野雞・軍市・水府・孫星・子星(数13、自午至未皆東上)、申の位に天節・九州殊口・附耳・参旗・九斿・玉井・軍井・屏星・伐星・天厠・天矢・丈人(数12、北上)、酉の位に天園・天陰・天廩・天苑・天囷・芻藁・天庾・天倉・鈇鑕・天溷(数10)、戌の位に外屏・大司空・八魁・羽林(数4、自酉至戌皆南上)、亥の位に哭星・泣星・天銭・天綱・北落師門・敗臼・斧鉞・壘壁陣(数8、東上)。
- 内壝外の衆星360位:各辰位30位ずつを配置。第二等以下の神位版はいずれも丹質黄書で、内官・中官・外官はそれぞれの星名を題する。内壝外の360位はただ「衆星位」とのみ題する。従祀の位はいずれも内向きとし、十二次は左旋する形で子は子陛の東、午は午陛の西、卯は卯陛の南、酉は酉陛の北に置く。
- : 以下の星官の名の列挙は底本の記述をそのまま写した。「居前行」として記される星名と本文冒頭の列挙とに若干の重複・不一致(例えば女宿の扱い)が底本に見えるが、推測で訂正せず原文のまま記す。
器物之等
その品目は8種に分けられる。
- 圭幣:昊天上帝は蒼璧1(繅藉付き)・青幣1・燎玉1。皇地祗は黄琮1(繅藉付き)・黄幣1。配帝は青幣1。黄帝は黄琮1、青帝は青圭1、赤帝は赤璋1、白帝は白琥1、黒帝は玄璜1で、幣はいずれもその方色に依る。大明は青圭(邸付き)、夜明は白圭(邸付き)、天皇大帝は青圭(邸付き)、北極は玄圭(邸付き)で、幣はいずれもその玉色に依る。内官以下はいずれも青幣。
- 尊罍:上帝には太尊・著尊・犠尊・山罍各1を壇上東南隅に北向き西上で設け(設けるが酌さないものとして象尊・壺尊各2、山罍4を壇下午陛の東に北向き西上で設ける)。皇地祗も同様に上帝の酒尊の東に北向き西上で設ける。配帝には著尊・犠尊・象尊各2を地祗の酒尊の東に北向き西上で設け(設けて酌さないものとして犠尊・壺尊各2、山罍4を壇下酉陛の北に東向き北上で設ける)。五帝・日月・北極・天皇はいずれも太尊1・著尊2、内官12次は各象尊2、中官12次は各壺尊2、外官12次は各槩尊2、衆星12次は各散尊2を設ける。尊はいずれも神座の左に設けて右向きとし、坫・勺があり羃で覆い(雲文の刺繍)、設けて酌さないものには勺がない。
- 籩豆登俎:昊天上帝・皇地祗及び配帝の籩豆はいずれも12、登3・簋2・簠2・俎8で、匕筯・玉幣篚2・匏爵1(坫付き)・沙池1・青磁の牲盤1がある。従祀9位の籩豆はいずれも8、簠1・簋1・登1・俎1・匏爵1(坫付き)・沙池1・玉幣篚1がある。内官位54は籩豆いずれも2、簋1・簠1・登1・俎1・匏爵(坫付き)・沙池・幣篚を12次おのおの1ずつ設ける。中官158はいずれも籩1・豆1・簋1・簠1・俎1・匏爵(坫付き)・沙池・幣篚を12次おのおの1ずつ設ける。外官位106はいずれも籩1・豆1・簋1・簠1・俎1・匏爵・沙池・幣篚を12次おのおの1ずつ設ける。衆星位360はいずれも籩1・豆1・簋1・簠1・俎1・匏爵・沙池・幣篚を12次おのおの1ずつ設ける。籩は神位の左、豆は右、登・簠・簋は中央、俎は後ろに置く。籩にはいずれも巾(斧文の刺繍)がある。
- 酒斉:太尊には泛斉、著尊には醴斉、犠尊には盎斉、山罍には三酒を実れ、いずれも上尊があり、馬湩を尊罍の前に設け器に注いで羃をかける(設けて酌さないものは象尊に醴斉、壺尊に沈斉、山罍2に三酒を実れいずれも上尊がある)。これは昊天上帝を祀る場合。皇地祗も同様。配帝は著尊に泛斉、犠尊に醴斉、象尊に盎斉、山罍に清酒を実れいずれも上尊があり、馬湩を前と同様に設ける(設けて酌さないものは犠尊に醍斉、壺尊に沈斉、山罍3に清酒を実れいずれも上尊がある)。五帝・日月・北極・天皇大帝には太尊に泛斉・著尊に醍斉(いずれも上尊、9位同じ)。内官12次は象尊に醴斉(上尊あり)。中官12次は壺尊に沈斉(上尊あり)。外官12次は槩尊に清酒(上尊あり)。衆星12次は散尊に昔酒(上尊あり)。五斉の上尊は必ず明水を実れ、山罍の上尊は必ず玄酒を実れ、散尊の上尊もまた明水を実れる。
- 牲斉庶品:昊天上帝は蒼犢、皇地祗は黄犢、配位は蒼犢、大明は青犢、夜明は白犢、天皇大帝は蒼犢、北極は玄犢いずれも1、馬純色1、鹿18、羊18、野豕18、兎12。国礼を参用して割牲は7体とする(左肩臂臑と代脇長脇で1体、右肩臂臑代脇長脇で1体、右髀肫胳で1体、脊連背膚短脇で1体、膺骨臍腹で1体、項脊で1体、馬首は「報陽」として升煙に用いる)。毛血は豆或いは青磁盤に盛り、饌が入る前に俎上に置き、饌が入れば徹する。籩の実は魚鱐・糗餌粉餈・棗乾・橑形塩・鹿脯・榛桃・菱芡栗の各種、豆の実は芹菹・韭菹・青菹・筍菹・脾折菹・酏食・魚醢・豚拍・鹿臡・醓醢・糝食の各種。簠簋にはいずれも黍稷・稲粱を実れ(一部の位では簋に稷、簠に黍のみ)、登には大羹を実れる。
- 香祝洗位:正位は香鼎1・香合1・香案1・祝案1(衣を掛け拝褥1あり)、盥爵洗位1(罍1・洗1・白羅巾1、親祀では匜2・盤2)。地祗・配位も同様。香は龍脳沈香を用い、祝版は長さ2尺4寸幅1尺2寸厚さ3分で楸柏材。従祀9位も香鼎・香合・香案・綾拝褥をそれぞれ9ずつ(褥はその方色に依る)、盥爵洗位2・罍2・洗2・巾2。第二等・第三等の盥爵洗位も各2。内壝内の盥爵洗位は1・罍1・洗1・巾1。内壝外も同様。従祀以下は香に沈檀降真、鼎は陶瓦を用いる。第二等以下12次以下はいずれも紫綾拝褥を12ずつ。
- 燭燎:天壇の椽燭4はいずれも銷金の絳紗籠を用いる。天壇から内壝外及び楽県の南北通道までは絳燭350・素燭440でいずれも絳紗籠。御位の椽燭6は銷金絳紗籠。献官の椽燭4。雑用の燭800。籸盆220(架付き)に黄桑条(皮を去り一車に束ねたもの)を置き、燎壇で牲首を焚く。
- 献攝執事:亜献官1・終献官1・摂司徒1・助奠官1・大礼使1・侍中2・門下侍郎2・礼儀使2・殿中監2・尚輦官2・太僕卿2・控馬官6・近侍官8・導駕官14・典宝官4・侍儀官5・太常卿丞8・光禄卿丞2・刑部尚書2・礼部尚書2・奉玉幣官1・定撰祝文官1・書読祝冊官2・挙祝冊官2・太史令1・御奉爵官1・奉匜盤官2・御爵洗官2・執巾官2・割牲官2・温酒官1・太官令1・太官丞1・良醖令丞2・廩犠令丞2・糺儀御史4・太常博士2・郊祀令丞2・太楽令1・太楽丞1・司尊罍2・亜終献盥洗官2・爵洗官2・巾篚官2・奉爵官2・祝史4・太祝15・奉礼郎4・協律郎2・翦燭官4・礼直官管勾1・礼部点視儀衛官2・兵部清道官2・拱衛使2・大都兵馬使2・斎郎百・司天生2・看守籸盆軍官120。