元史卷六十四 志第十六 河渠一
総説
- 水は中国にとって古来からの憂患である。その害を知ることは、その利を知ることに通じる。害が測りがたいゆえに事前に備え、あるいは事後に功を立ててこそ、善く水を治め利を通じさせたと言える。かつて禹は洪水を塞ぎ九河を疏通し九沢を陂として万世の利を開いた。周礼の地官には瀦・防・溝・遂の法が詳しく記され、当時は天下いたるところ水利ならざるはなかった。先王の井田の制が壊れて後、水利の説が興り、魏の史起は漳河を鑿ち、秦の鄭国は涇水を引き、漢の鄭当時・王安世らも漕渠を穿つ、あるいは水を防ぐ策を建てるなど試みて功を成した者があった。太史公の『河渠書』一篇はなお考証できる。しかしその後、好事の徒がしきりに興利の説を唱え、その害が言い尽くせぬほどになった例も多い。水が下に潤うのはその性であり、これを防いで怒りを殺ぎ衝を遏めるのは容易ではない。ただその勢いに因って導けば、蓄うべきは水を儲えて旱魃に備え、洩らすべきは水を瀉いて水潦の溢れを防ぐことができ、水患は息み無窮の利益が生まれる。元は天下を有してより、内に都水監を立て、外に各処に河渠司を設け、水利の興挙と河堤の修理を務めとした。雙塔・白浮の諸水を決して通恵河となし漕運を済して京師に転餉の労を無くし、渾河を導き灤水を疏して武清・平灤に墊溺の憂いを無くし、冶河を浚え滹沱を障いて真定は決嚙の患を免れ、会通河を臨清に開いて南北の貨を通じ、陜西の三白渠を疏して関中の田を溉し、江湖の淫潦を泄し捍海の横塘を立てて浙右の民は水患を免れた。当時の水利を善く語った者には太史郭守敬らがいた。一代の事功は泯ぼすべきではないため、その開修の年月・工役の次第を著し、事を叙して分紀し、河渠志を作る。
通惠河
- 通恵河は白浮・甕山の諸泉水を源とする。世祖至元28年(1291年)、都水監の郭守敬が水利興挙を建言し、通州から大都に至る河を疏鑿し渾水灌漑に用いていた旧の閘河をやめ、清水を導くこととした。昌平県の白浮村から神山の泉を引き、西に折れ南に転じ双塔・榆河・一畝・玉泉などの諸水を経て西門に至り都城に入り、南に匯まって積水潭となし、東南に出て文明門を経て東の通州高麗荘に至り白河に入る。総長164里104歩。清水口12か所(計310歩)を塞ぎ、壩・閘10か所(計20座)を設けて水を節し漕運に通じさせるという議は便益として採用された。至元29年春に着工、30年秋に完成し、通恵の名を賜った。役夫は軍19,129人・工匠542人・水手319人・没官囚隷172人、計285万工。用いた楮幣152万錠、糧3万8,700石、木石等の物もこれに準じた。丞相以下が自ら畚鍤を執って範を示し、閘の置かれた場所ではしばしば地中から旧時の磚木が見つかり、時人はこれに感服した。船が通行するようになり公私ともに便を得た。かつては通州から大都まで50里を陸路で官糧を輓運し民は年々数万の労に苦しんでいたが、これ以後廃止された。壩・閘の名は、広源閘・西城閘二(上閘は和義門外西北1里、下閘は和義水門西3歩)・海子閘(都城内)・文明閘二(上閘は麗正門外の水門東南、下閘は文明門西南1里)・魏村閘二(上閘は文明門東南1里、下閘は西の上閘まで1里)・籍東閘二(都城東南の王家荘)・郊亭閘二(都城東南25里の銀王荘)・通州閘二(上閘は通州西門外、下閘は通州南門外)・楊尹閘二(都城東南30里)・朝宗閘二(上閘は万億庫南100歩、下閘は上閘から100歩)。成宗元貞元年(1295年)4月、中書省臣が新たに開いた運河の閘には軍1,500を用いて守護と巡防にあたらせ往来船内の姦宄を防ぐべきと言上し、従われた。7月、工部は通恵河の閘壩の創造には多大な費用を要したので提領3員を設け人夫を管領させ専ら巡護に当らせ印綬俸禄を給すべきと言上。西城閘を会川と改称し、海子閘を澄清、文明閘は旧名のまま、魏村閘を恵和、籍東閘を慶豊、郊亭閘を平津、通州閘を通流、河門閘を広利、楊尹閘を溥済と改称した。武宗至大4年(1311年)6月、省臣は通州から大都までの運糧河の閘は当初速成を旨として木を用いたため年久しくして朽ちるので、永久の計として磚石を用い順次修治すべきと言上、従われた。その後泰定4年(1327年)にようやく修完した。文宗天暦2年(1329年)3月、中書省臣は世祖の時に通恵河を開き閘座を設けたのは専ら上源白浮・一畝などの泉水によって漕運を通ずるためであったが、いま各支流や寺観・権勢の家が私に堤堰を決して稲田に灌漑したり水碾・園圃に用いたりして河が浅くなり漕運を妨げていると言上し、禁止を求めた。旨により白浮甕山から大都の運糧河に至る堤堰の泉水は何人も勢いをかりて盗み決してはならぬとし、大司農司・都水監に厳禁させた。
壩河
- 壩河は阜通七壩ともいう。成宗大徳6年(1302年)3月、京畿漕運司が言上した。年々漕運する米100万石は船・壩の夫力に頼り、氷開から結氷までの計240日で運ぶ糧は460余万石に及び、所轄の船夫1,300余人・壩夫730が昼夜休み無く働いている。今年は水嵩が増して壩堤60余か所を決壊させ、修復はしたが霖雨で崩れて漕運に走泄する恐れがあるため、河堤の浅く低薄な箇所を点検し修理を請う。5月4日入役、6月12日に竣工。深溝壩9か所で計15,153工、王村壩2か所で713工、鄭村壩1か所で1,125工、西陽壩3か所で1,262工、郭村壩3か所で1,987工、千斯壩下1か所で10,000工、総計30,240工を要した。
金水河
- 金水河は宛平県の玉泉山を源とし、義和門南の水門を経て京城に入るため金水の名を得た。至元29年2月、中書右丞バスフイらが、金水河が経る運石大河および高良河・西河に架かる跨河跳槽が損壊しているので新造すべきと言上し、同年6月起工、翌年2月竣工。至大4年7月、金水河の水を光天殿西花園の石山前の旧池に引くよう命じられ、閘4か所を置いて水を節した。閏7月起工、9月竣工。役夫匠29人、計2,723工、妨工を除き実役65日。
隆福宮前河
- 隆福宮前河はその水が太液池と通じる。英宗至治2年(1322年)5月、勅により、かつて世祖の時には金水河での洗手は禁じられていたが今は馬を洗う者もあり、秋までに疏滌して汚穢を禁ずべきとされ、会計のうえ修浚。3年4月起工、5月竣工。役軍800人、計5,635工。
海子岸
- 海子岸は上は龍玉堂に接し、その四周を石で甃す。海子は一名積水潭ともいい、西北の諸泉水が都城に流入して匯まり、汪洋として海のようであるため人々がこう名づけた。仁宗延祐6年(1319年)2月、都水監が前後の旧石岸と接続するよう会計し、石305(各長4尺・幅2尺5寸・厚1尺)、石灰3,000斤を用い、計305工・丁夫50・石工19人で、月5日起工、11日竣工。至治3年3月、大都河道提挙司は、海子南岸の東西道路は両城の要衝であり、金水河がその上を浸潤し海子の風浪がその下を衝嚙し、道は狭く時に潰陥して泥濘となり車馬の往来が困難なので石で砌けば永久の計になると言上。泰定元年4月工部が資材を応副し、7月起工、8月竣工。役夫匠287人。
雙塔河
- 双塔河は昌平県孟村の一畝泉を源とし、双塔店を経て東に流れ豊善村に至り榆河に入る。至元3年4月6日、巡河官が双塔河が氾濫しようとしており早く備えねば決壊すると訴え、水口を閉じる工事の資材を都水監に申請、雙塔河は開かれて日が浅く未だ堅固でなく水嵩の時期に決壊すれば運船を悞ると省が制国用司に指示し資材を給し都水監が夫を差して修治した。閉じた水口は計5か所、用工2,155。
盧溝河
- 盧溝河は代の地を源とし、小黄河と称される。奉聖州の境から宛平県境に流入し、都城まで40里の東麻谷で二派に分かれる。太宗7年(1235年)乙未8月、劉冲禄に率いさせた水工200余人が期限どおり盧溝河の元破牙梳口を築閉したと勅令に基づき奏し、堤を修めて護らないと不時に漲水で衝壊されたり、貪利の徒が盗決して灌漑する恐れがあるため禁令を布くべきとし、劉冲禄に領させ衝塌・盗決を防がせ、違反者は違制論として徒2年・杖70とした。修築時の丁夫や器具は差発すべき所から調発させ、旧の水手人夫のうち50人を留めて存置させ、常に巡視し年一度交番するよう定めた。
白浮甕山
- 白浮甕山は通恵河の上源の出る所である。白浮泉水は昌平県境で西に折れ南に経て甕山泊に至り、西水門から都城に入る。成宗大徳7年(1303年)6月、甕山等処看閘提領が閏5月29日以来昼夜雨止まず、6月9日夜半に山水が暴漲し隄上を漫流して水口を衝決したと報告。都水監は官を委ねて督軍させ、9月21日入役、月末に輟工、実役軍夫993人。11年3月、都水監は白浮甕山河堤が30余里崩れたので荊笆で水口を編み水勢を泄すべきとし、修笆口11か所を計り4月起工、10月竣工。仁宗皇慶元年(1312年)正月、都水監は白浮甕山堤の低薄崩陥箇所の修治を言上、来春2月入役、8月修完、総修長37里215歩、計73,773工。延祐元年(1314年)4月、都水監は白浮甕山から広源閘までの隄堰の淤淀・淺塞と源泉の細小を言上し疏滌を計り、軍1,000人を差して疏治。泰定4年(1327年)8月、都水監は8月3日から6日にかけての霖雨で山水が氾溢し甕山諸処の笆口を衝壊し民田を浸没したため、資材を計り工部に申請、8月26日起工、9月12日竣工、役軍夫2,000名、実役9万工・45日。
渾河
- 渾河はもと盧溝水で、大興県から東安州・武清県を経て漷州境に入る。至大2年(1309年)10月、渾河水が左都威衛営西の大堤を決し氾溢して左右二翊および後衛屯田の麦を没したため、10月5日に武清県王甫村の堤が幅50余歩・深さ5尺ほど決したとし、来春の氷解・夏雨で渠を成し軍民が害を被る恐れがあるため、営司を遷すか軍民を差して修塞すべきと言上。3年2月12日、左右翊および後衛・大都路が委官督工し5月20日竣工。皇慶元年(1312年)2月17日、東安州は渾河水が黄堝隄17か所を決したと報告、都水監が資材を計り工部に申請。同月27日、枢密知院ダシテムルが左衛の言として渾河が隄口2か所を決し屯田を浸し耕作不能になったので軍500を発して修治済みと奏し、有司に用心して修治させるべきと議し、従われた。7月、工部委官の張彬は6月30日の霖雨で水が丈余漲り隄口200余歩を決し民廬・禾稼を漂没させたと巡視報告し、修治と刈草の民丁興築を求めた。延祐元年(1314年)6月17日、左衛は6月14日渾河が武清県劉家荘の堤口を決したため軍700を差し東安州の民夫と協力して修めたと報告。3年3月、省は渾河決堤による軍民被害を相視し、石径山金口から武清県界に至る旧堤全長348里のうち大小47か所を修築、うち19か所を補修、8か所を新規築造、2か所を疏通すべきとし、計工38万100・役軍夫35,096日を要し、3年に分けて行うこととした。省院は軍民夫匠1万を先に発し要処の興工にあたらせ、20日には枢府が軍3,000を撥し中衛僉事に督理させた。7年5月、営田提挙司は前年12月21日に屯戸が広賦屯北渾河堤200余歩の崩壊の恐れを巡視し春の土解・水漲での浸没を憂え修治を請うたと報告、都水監は濠寨・営田提挙司官・武清県官に督夫させ、広武屯北の陥薄堤1か所で2,500工、永興屯北の低薄堤1か所で4,166工、落垈村西の衝圯1か所で3,733工、永興屯北の崩圮1か所で6,518工、北王村荘西河東岸から白墳児南・韓村西道口まで6,093工、劉邢荘西河東岸から寳僧百戸屯南・白墳児まで30,712工、総用工53,722。泰定4年(1327年)4月、省は3年6月の霖雨山水暴漲による大興県諸郷の桑棗田園の氾没を議し、七衛屯田および見有軍から3,000人を差して修治した。
白河
- 白河は漷州の東4里にあり、北は通州潞県より出て南は通州境に入り、さらに東南に流れて香河県境に入り、また武清県境を経て静海県界に達する。至元30年(1293年)9月、漕司は通州の運糧河は全く白・榆・渾三河の水に頼り合流して潞河と呼ばれ舟楫の往来が長年続いてきたが、その年新たに開いた閘河が渾・榆二河の上源の水を分引したため李二寺から通州まで30余里の河道が浅澁となり、春夏の旱魃で深さ2尺しかない箇所は糧船が通らず小料船に積み替えるため嵗月を淹延させ糧数を虧いていると報告。先に都水監が白河の東岸呉家荘前より大河に至る西南方向に小河を2里ほど開き、榆河を引いて合流させ深溝壩下まで漕舟を通そうとしたが、丈量の結果、深溝榆河上湾から呉家荘竜王廟前の白河西南、壩河まで800歩あり、巡視の結果、榆河上源は閉築されて水がすべて通恵河に流れ、白仏霊溝など三小河の水は榆河に注ぐも泉脈が細く舟を勝えないため、呉家荘の竜王廟前から白河を西南に閉じ小渠を開いて壩河上湾から水を引き榆河に入れることで漕運を可能にすることとした。また深溝の楽歳・広儲の五倉には新旧の糧70余万石が積まれ、站車の輓運が難渋していたため、通州城北の通恵河の積水から深溝村西の水渠までが樂歳・広儲等倉に近いと訪視し、積水処より旧渠を北に400歩開いて楽歳倉西北に至り小料船で運載する案が省に准された。通恵河は通州城北から楽歳倉西北まで水陸あわせて500歩、計80,650工を要した。大徳2年(1298年)5月、中書省は都水監に運糧河堤の楊村から河西務まで35か所に葦19,140束・軍夫2,649名を用い30日で完成させるよう劄付。本監は分官が濠寨を率いて楊村より壊堤を厯視し巡河夫を督して修理させたが霖雨で水が溢れ工役は当初の見積もりの倍を要した。寺洵口の北から蔡村清口・孫家務・辛荘・河西務の隄は元の見積もりの葦草で卑薄な箇所を補修し、月堤を新たに築くなど成功を見た。楊村両岸相対する出水河口4か所は葦草が足りず軍夫に採刈させ、9月には楊村へ役に往かせた。楊村河は上は通恵の諸河に接し下は滹沱を通じ江淮に入り、官民の舟楫が直に都邑に達し国利民便であったが、楊村堤岸は修めるたびに崩れ、用力が固まらぬためであった。未修の箇所は来春の水涸れ・土乾を待って軍夫に修治させることとした。延祐6年(1319年)10月、省臣は漕運糧儲と南来の諸物・商賈の舟楫がいずれも直沽から通恵河を経ることを言上し、岸崩れ泥浅で疏浚しなければ舟行に支障し物価騰貴を招くので、都水監は専属の分官1員を置いて随時巡視し崩れれば適宜修築し、人力が足りなければ有司が夫を差して助役し、怠る者は究治すべきとし、従われた。至治元年(1321年)正月11日、漕司は夏に運ぶ海糧189万余石の転漕往還は河道の通便に頼るが、いま小直沽の汊河口で潮汐往来による淤泥の壅積が70余か所に及び漕運が滞っているため都水監に疏滌を移文すべきと言上。工部は農繁期であり民も食糧に窮しているため民力の差発は難しいとし、樞密院は軍人不足を議したが、省は農事を妨げぬよう大都で民夫3,000を募り日給傭鈔1両・糙粳米1升とし正官が提調して4月11日入役、5月10日竣工させた。泰定元年2月、枢府臣は臨清万戸府の言として至治元年の霖雨で運糧河岸が壊れたので修築すべきと奏し、本府が軍300を差して従事した。3年3月、都水監は河西務菜市湾の水勢が倉に近い箇所を衝嚙しているため劉二総管営の対岸で河を截り堤を築いて水道を改め旧河に合すべきとし、4年正月、省臣は枢府に軍5,000、大都路に民夫5,000を募らせ日糙米5升・中統鈔1両を支給、本監と工部が委官し前衛の董指揮とともに監役、3月18日起工、6月11日竣工。致和元年(1328年)6月6日、臨清御河万戸府は泰定4年8月2日の河溢で営北門の堤約50歩を壊し旧樁木百余を漂没させたと報告、工部は都水監の会計により各処から資材を支給、役夫3,000人を要するが民の差発は農事を妨げるため樞密院に移文して軍を撥すべきとし、天暦2年3月には漕司が元に開いた劉二総管相対の河は旧河より運糧に迂遠であるとして舊河の再開を委官相視すべきと言上、4月9日、軍7,000を差し兵部員外郎の鄧衡・都水監丞のアリ・漕使のタイハブハらに督修させることが奏准された。冬寒により凍解を待って興役、3年、工部は大都近甸で民夫3,000を募り日糙粳米3升・中統鈔1両を支給、兵部が辛侍郎と元委官に修闢させた。至順元年(1330年)6月、都水監は23日夜白河水が丈余に驟漲し観音寺新修の護倉堤をすでに督って夫を差し救護させたが今は水が尺余落ちたので伏槽を待って興作すべきと言上した。
御河
- 御河は大名路魏県界から元城県泉源郷・于村渡を経て南北約10里、東北に流れて包家渡下に至り館陶県界に接する。三口御河は上は交河県より下は清池県界に入り、また永済河は清池県西30里、南皮県より来て清州に入り、今は御河と呼ばれる。至元3年(1266年)7月6日、都水監は運河2,000余里は漕運により公私の物貨に大利をもたらすが、兵乱以来修治を怠り、清州の南から景州の北にかけて頽闕の岸口が30余か所あり淤塞した河流が15里に及ぶこと、癸巳年に朝廷が夫4,000を役して修築浚滌し再び行舟できるようになったが、それから既に30余年官の主領なく、滄州では地面が平地より高いため隄堰に防護を頼っているのに、園圃の家が隄を掘って井戸を深さ丈余、あるいは2丈も穿ち引水して蔬花を灌漑し、また瀕河の民が隄の土を取って次第に破損させ水勢を走泄させ、行舟に渋滞するだけでなく民居を漂わし禾稼を没する恐れがあり、また長蘆以北・索家馬頭の南では水中に椿橛が隠れ舟船・糧物を破壊していると言上。濱河州県の佐貳官に河防事を兼ねさせ随地巡視し、闕破があれば率衆修治し椿橛を抜去させ、園圃の家が隄を穿ち井戸を作り樹を栽え土を取ることを禁じるべきとし、都省が准議した。7年、省臣は御河水泛で武清県の疏浚に役夫延べ10工・80日を要すると言上、従われた(原文のまま)。至大元年(1308年)6月29日、左翼屯田万戸府は5月18日申時に水が会川県孫家口の岸約20余歩を決し南に流れて屯田に灌いだため河間路・武清県・清州の有司に丁夫を差し修治させるよう移文したと報告。樞密院は河間路左翊屯田万戸府に軍を差し併工して塞がせた。10月、大名路濬州は7月11日から17日までの連雨で清・石二河の水が李家道の東南に横流し、社長高良らに聞いたところ水源は衛輝路汲県の東北に連なる本州の淇門西の旧黒蕩泊が溢れ黄河の古堤を漫して東北に流れ本州の斉賈泊に入り再び御河に入って門民の家を漂わしたもので、今年の水勢が逆行するのは下流の漳水の漲溢によるものであり人力ではいかんともしがたいと報告。また西関の水手佐聚は7月12日卯時に御河水が3尺驟漲し、18日にはさらに4尺増し水は逆流していることから下流の漲水による壅逆と明言し、官の巡治を求めた。延祐3年(1316年)7月、滄州は清池県民が往年、景州呉県諸処の御河水溢で堤岸を決し、万戸チノが淇屯の田を守るため軍を差して旧洩水郎児口を塞がせたところ水の逃げ場がなくなり民廬と既熟の田数万頃を浸したため、官を遣わして疏闢し水を海に導くべきと訴えたこと、また7月4日に呉橋県柳斜口東岸30余歩を決したため千戸イスがまた軍を遣わして郎児口を閉塞し水壅で漂蕩の恐れがあり張管・許河・孟村など30余村の黍穀・廬舎に及ぶため、本州が官を遣わし相視し開闢を約したが従われなかったことを報告。4年5月、都水監は河間路の官とともに元の塞いだ郎児口の東西長25歩・南北幅20尺・堤南の高さ1丈4尺・北の高さ2丈余を相視し、さらに郎児口下流の故河を滄州城に至るまで約30余里、上下の古跡が寛闊であることから減水の故道と定め、名を盤河とし、郎児口を開闢し故河を増浚して決水を滄州城北から滹沱河を経て海に入れることとした。泰定元年(1324年)9月、都水監は丁夫5,898人を遣わし督させ、28日起工、10月2日竣工した。
灤河
- 灤河は金蓮川の中に発し、松亭の北を経て遷安の東・平州の西を経て灤州に至り海に入る。王曾の『北行録』には偏槍嶺から40里で烏灤河を過ぎ、その東に灤州があり河にちなんで名づけられたとある。至元28年8月、省臣は姚演の言として勅により灤河を疏浚して漕運を上都に通じさせることを奏し、沿河の露囷・工匠・什物を応副し、来年用いる漕船500艘・水手1万・牽船夫24,000を予備すべきとした。臣らは近年東南は荒歉で民力が凋弊しており、造舟・調夫を一時に並行すれば重困を招くとし、先に舟10艘を造り水手を量って試行し、便であれば増益すべきと請い、これが裁可され、先に50艘で試行し能力ある人を選んで従事させた。大徳5年(1301年)8月13日、平灤路は6月9日の霖雨が15日夜まで続き灤河と淝洳・三河が並び溢れ城の東西二か所の旧護城堤と東西南三面の城牆を衝圯し、水は城内に流入して郭外三関や瀕河・在城の官民の屋廬・糧物を漂没させ、田苗を没し人畜の死者が甚だ多く、雨はなお止まず、14日夜には灤・漆・淝洳の諸河がまた漲って残った屋をほとんど漂わし尽くしたと報告。吏部の馬員外を都水監官とともに委ねて修治させ、東西二堤に計311,050工・鈔8,087錠15両・糙粳米3,110石5斗・樁木等価の鈔274錠26両4銭を要した。延祐4年(1317年)6月16日、上都留守司は正月1日城南御河西北岸が水に衝嚙され頽圮すれば来春の水泛で民居が漂没する恐れがあると報告、また開平県は4月26日から28日夜の霖雨で東関灤河水が北岸を衝損したため修築すべきと言上。本司は目下仲夏で霖雨が再び水を溢れさせ大害となる恐れがあるとして官を委ね夫匠を督して興役させ、開平は幼小の民夫では任に堪えないため軍の調発を請い、5月21日、留守司は灤河の決堤修築に軍600を要すると言上、樞密院に差官・給食を命じるとの制が下り、虎賁司が軍300を発して治めた。泰定2年(1325年)3月13日、永平路屯田総管府は国家の経費はみな民に出、農作こそが民の生の根本であり、本屯の墾田収糧は内府の用に供する重要なものであるとし、馬城の東北5里ほどの張家荘竜湾頭でかつて有司が夫を差して隄を築き灤水を防いだが、去年の霖雨で水が溢れて衝蕩し尽くし本屯民の田苗が浸死したため、農閑を利用して事前に修めるべきと言上、工部は都水監に移文し濠寨と灤州官を派して本屯官とともに相視督修させた。3年5月10日、上都留守司および本路総管府は大西関南の馬市口灤河の隄が侵嚙され漸く崩れ、事前に治めなければ夏の霖雨で水泛の患があると報告、都省に丈量計工のうえ修治させ、工部が上都に移文して分部施行させた。7月2日、右丞相ダシテムルらは、オルドスの住冬営盤が灤河の走凌河水に衝壊されようとしているので護水堤を築くべきとし、樞密院に軍1,200を発させこれに供させるべきとし、従われた。
河間河
- 河間河は河間路の境にある。泰定3年(1326年)3月、都水監は河間路の水患について、古倹河は北門外から旧に依り疏通し大成県界に至り上源の水勢を洩らし塩河に引き入れること、古陳玉帯河は軍司口から浚治して雄州帰信県界に至り淀灤の積潦を導いて易河に注ぐこと、黄竜港は鎖井口から開鑿し文安県玳瑁口に至り濼水を通じ火焼淀を経て海に流入させること、これら疏通すべき河が30か所あり総役3万・30日で完成すると言上。同月、省臣は断事官の鼎珠と元委任の都水孫監丞、および本処有司の官を遣わし旁近州県の丁夫3万を発し日給鈔1両・米1升とし、まず古陳玉帯河から着手すべきと奏准したが、嵗旱・民饑により役を興すと人を労するので、豊年を待って行うこととした。
冶河
- 冶河は真定路平山県の西門外にあり、井陘県を経て流れ来て本県の東北10里で滹沱河に入る。元貞元年(1295年)正月18日、丞相オルジェイらは、先帝がかつて真定の冶河開鑿を命じ丁夫の人役をすでに撥発していたが先帝崩御のため中止となったことを述べ、旧制に遵って事を全うすべきと請い、従われた。皇慶元年7月2日、真定路は竜花判官が平山県堤より計工の資材を申請したと言上、省は都水監と本路官を平山県西北から滹沱・冶河合流の急注する真定西南関まで歴視させ、冶河の故道を平山県西北の河内から改めて滚水石堤を修め、下に竜塘堤を修めて東南の水碾村まで河道を1里改め、蒲吾橋西でも河道1里を改闢し、上は平山県西北から下は寧晋県まで疏浚して隄を築き上源を分けて舊河に入れその勢を殺ぐこと、また程同・程章の二石橋が水勢を阻んでいるため減水の月河2道を開けば久しく便であることを議し、下って欒城県南から趙州・寧晋県の諸河北の下源の地形が低く欒城・趙州を経て泛水すれば石橋を壊し河を害する恐れがあるため、欒城県北の聖母堂東の冶河東岸に減水河を開けば真定の患を除けると議し、省が准し2年2月、都水監は本路・廉訪司の官と平山県で相視会計させた。冶河は平山県北関西の竜神廟北の独石から通長5,806歩、役夫5,000・計188,807工、風雨妨工36日を除いて完成の見込みとした。
滹沱河
- 滹沱河は西山を源とし真定路真定県の南1里を経、藁城県の北1里・平山県の北10里を経る。『寰宇記』には霊寿県の西南20里を経るとあり、この河は真定諸郡を貫流するため経る所をみな滹沱水と呼ぶ。延祐7年(1320年)11月、真定路は真定県城南の滹沱河北岸の決堤が城に近く年々修築を要すること、その源はもと微弱で冶河とは通じなかったが後に二水が合流しその勢いが猛くなり、しばしば金代の大堤を壊し患をなしたこと、本路の達魯花赤ハクサンは至元30年に冶河を引闢して独立の流れとしたが滹沱水は十の七・八まで戻ったこと、至大元年7月に水が南関百余家を漂わし冶河口を淤塞させ水は再び滹沱に戻り、以後年々潰決の患があったことなどを報告した。大徳10年から皇慶元年までの間に築いた堤の掃・葦草は200余万に及び、官給の夫糧・傭直は100余万錠、延祐元年3月から5月にかけて修めた隄は270余か所に及び、明堂判官勉村の3か所は橋木を樁とし夫500余人を徴し月余に及んでも終わらず、近年米価が高騰し民は食に窮し、丁ある者は正身で応役し単丁の者は人を募らねばならず日傭は3、5貫を下らず、前の工事が終わらぬうちに後の役が続いて至った。7月8日にはまた李玉飛荘・木方胡営など三か所の堤・長1,240歩が衝塌し、官を遣わし相視のうえ夫を差して月堤を築くこととした。延祐2年、本路前総管のバスフイはかつて冶河を闢いたが再び湮塞し、今年の霖雨で北岸数か所が浸没し田禾を害した。その河はもと康家荘村南を流れていたが村北に移ってから数年、隄北から土を取って修築したため南が高く北が低くなり水は次第に低い方へ嚙みつき、西は木方村、東は護城堤まで約2,000余歩に及ぶため、来春の修治には樁梢と土隄を用いる必要があり、木方村南の旧く湮枯した河を浚え水を南流させ北岸の河口を牐閉すれば南岸で土を取り隄を築いて下は合頭村北で本河と合し、城から離れるため患いが少なくなると議した。都水監は截河築堤の幅千余歩に対し新開の古岸幅がわずか60歩で千歩の勢を制禦できないため、北岸の闕破・低薄な箇所に元の見積もりを増して葦草の掃で補築すべきと議し、丁夫・葦草の民間差発は嵗旱で民食が乏しいため各州県上中戸から価銭・食米を官銭より支給、2月20日を期して起工、役夫5,000で計160,719工、32日で完成の見込みとした。総計、滹沱河北岸の防水堤10か所、長1,910歩、高低不一で計3,407,750尺、推掃梯25、大檩3・小檩3計150、草358,000束・葦280,640束・稍柴7,200束を用いた。至治元年(1321年)3月、真定路は真定県の滹沱河が水泛のたびに堤岸を衝くので丁夫を差して築いてきたが、廉訪司官と相視し、木方村南の旧く湮んだ河道を疏闢して東南に導き北岸を牐閉すれば河南で取土でき合頭村で本河と合すれば民安を望めると議した。都水監は真定路官とともに議し、治水は自然の理に順うべきであるとし、滹沱河口を牐閉し截河築堤1,000余歩・故河の老岸幅60歩・長30余里を開掘し東南に水を導くこと、霖雨で両岸が水に叩かれる際に堤を截れば水性に逆らい、新開の故河幅わずか60歩で千歩の勢を吞めず潰決するため、河北岸の旧堤北に元の見積もりを増して掃を固く修築するのがよいとし、省が准した。滹沱河北岸の縷水堤10か所、通長1,910歩、役夫500名、計160,739工。泰定4年8月7日、省臣は真定路の言として滹沱河が連年泛溢し害をなしていることを奏し、都水監・廉訪司・真定路・瀕河州県官と耆老が会議した結果、河源は五台諸山より発し平山県王母村の山口下で平定州娘子廟の石泉冶河と合し、夏秋の霖雨で水漲し城郭を瀰漫させ毎年民を労して堤を築いても害を除けないため、王子村・辛安村より河を長さ4里余に鑿ち魯家湾の旧澗に接し、さらに200余歩開いて冶河に合流させその勢を分殺すること、また木方村の滹沱河南岸の故道を30里疏滌し北岸には樁を下して掃を捲き堤を築いて水を東に流すべきとし、今年資材を蓄え9月に興役し11月に完成させれば力を省いて功多く永く害を無くせるとした。工部は二河を並せて治せば役が大きく民を労するため冶河を先に開くべきとし、真定路が徴する民夫が足りなければ隣郡の順徳路から募人を差し日給中統鈔1両5銭とし、民田を侵礙すれば官がその代価を酬うべきとした。中書省・都水監は知水利の官を差して濠寨を率い本路・当該州県が上・廉訪司とともに力を添え、滹沱河については近後に再議することとし、9月、都水監官と本道廉訪司・真定路が有司を督して修治させることとなった。後に真定路が閏9月5日を興工開始としたが、趙州・臨城など諸県から寒冷凍結で施工困難との申請があり春暖を待って開闢することとし、10月7日に人民を放散した。部議では人夫が既に散った以上、已給の夫鈔26,832錠・地価銭630錠を准すこととした。
會通河
- 会通河は東昌路須城県の安山の西南に起こり、夀張の西北を経て東昌に至り、さらに西北の臨清に至って御河に逾る。至元6年(原文のまま。至元二十六年か)、夀張県尹の韓仲暉と太史院令史の辺源が相継いで汶水を引いて舟を御河に達し公私漕販を便ならしめるべく開河・置閘を建言、省は漕副の馬之貞を遣わし辺源らと地勢・工用を視察させ、開河可能の状を図上させた。詔により楮幣150万緡・米400石・塩5万斤を傭直・器用に充て、旁郡の丁夫3万を徴し、断事官のモンゴル礼部尚書の張孔孫・兵部尚書の李処巽らを駅遣してその役を董させた。同年正月己亥、須城安山の西南に始まり臨清の御河で終わる、その長さ250余里、中に閘31を建て高低の差と遠近によって蓄洩を節した。6月辛亥に完成、計251万748工余を要し、会通河の名を賜った。27年、省は馬之貞の言として霖雨で岸崩れ河道が淤浅したので修浚を加えるべきとし、輸運の站戸3,000の差発を奏し撥放して専らこの役に供させ、木石等を採伐して用に充てさせた。以後毎年都水監官1員に分監の印を佩びさせ令史・奏差の濠寨官を遣わして巡視させ、工事を督して閘を石造に替え、損壊の緩急によって順に施工させ、泰定2年(1325年)にようやく事を終えた。会通鎮閘3・土壩2は臨清県北にあり、頭閘は長さ100尺・幅80尺、両直身は各長さ40尺、両雁翅は各斜長30尺、高さ2丈、閘の開口は2丈。至元30年正月1日起工、役夫匠660名、10月29日竣工。中閘は南の隘船閘まで3里、元貞2年7月23日起工、大徳2年3月13日竣工、夫匠443、規模は上閘に同じ。隘船閘の南、李海務閘まで152里、延祐元年8月15日起工、9月25日竣工、夫匠500、閘の開口9尺、規模は上に同じ、土壩2。李海務閘の南、周家店閘まで12里、元貞2年2月2日起工、5月20日竣工、夫匠527名、規模は会通鎮閘に同じ。周家店閘の南、七級閘まで12里、大徳4年正月21日起工、8月20日竣工、夫匠442。七級閘二(北閘・南閘)は3里隔て、大徳元年5月1日起工、10月6日竣工、夫匠443名、規模は周家店閘に同じ。南閘の南、阿城閘まで12里、元貞2年正月20日起工、10月5日竣工、夫匠450名、規模は北閘に同じ。阿城閘二(北閘・南閘)は3里隔て、大徳3年3月5日起工、7月28日竣工、夫匠441名。南閘の南、荊門北閘まで10里、大徳2年正月25日起工、10月1日竣工、夫匠446名。荊門閘二(北閘・南閘)は2里半隔て、大徳3年6月1日起工、10月25日竣工、役夫310名、規模は南閘に同じ。南閘の南、夀張閘まで63里、大徳6年正月23日起工、6月29日竣工、規模は北閘に同じ。夀張閘の南、安山閘まで8里、至元31年正月1日起工、5月20日竣工。安山閘の南、開河閘まで85里、至元26年建設。開河閘の南、済州閘まで124里。済州閘三のうち上閘・中閘は3里隔て大徳元年3月12日起工、7月28日竣工。中閘・下閘は2里隔て至治元年3月1日起工、6月6日竣工。下閘の南、趙村閘まで6里、大徳7年2月13日起工、5月21日竣工。趙村閘の南、石仏閘まで7里、泰定4年2月18日起工、5月20日竣工。石仏閘の南、辛店閘まで13里、延祐6年2月10日起工、4月29日竣工。辛店閘の南、師家店閘まで24里、大徳元年正月27日起工、4月1日竣工。師家店閘の南、棗林閘まで15里、大徳2年2月3日起工、5月23日竣工。棗林閘の南、孟陽泊閘まで95里、延祐5年2月4日起工、5月22日竣工。孟陽泊閘の南、金溝閘まで90里、大徳8年正月4日起工、5月17日竣工。金溝閘の南、隘船閘まで12里、大徳10年閏正月25日起工、4月23日竣工。沽頭閘二(北の隘船閘・下閘)は2里隔て延祐2年2月6日起工、5月15日竣工。南閘の南、徐州まで120里、大徳11年2月起工、5月14日竣工。三汊口閘は鹽河に入り、南の土山閘まで18里、泰定2年正月19日起工、4月13日竣工。土山閘の南、三汊口閘まで25里、鹽河に入る。兖州閘・堈城閘。延祐元年2月20日、省臣は江南行省起運の諸物はみな会通河を経て都に達するが河が浅澁で大船が塞ぐと他船の往来を妨げると言上。毎年省台が巡視の官を差すが、始め開河のときは百五十料船しか通行を許さなかったが、近年権勢の者や富商大賈が三、四百料あるいは五百料の船を貪って河に運行させ阻滞を招いているとし、沽頭に小石閘を置いて百五十料船に限るべきとの提案を可とし、中書・都水監が沽頭に小閘1を置き、臨清にも適地を相視して小閘1を置き、二百料以上の船の入河を禁じることとした。至治3年(1323年)4月10日、都水分監は会通河の沛県東・金溝・沽頭諸処は地形が高峻で旱時には水浅く舟が渋滞するため既に二か所の滚水堰を置くことを准し、延祐2年には沽頭閘上に隘閘1を増置して巨舟を限っていたが、霖雨のたびに三閘の月河・截河土堰がすべて衝決され、秋以降に薪を刈り冬の水落ちを待つか翌年の春に修治するため工夫が浩大で丁夫千百・薪十万余束を要し数月かけてようやく完成し労費が万倍に及ぶこと、また延祐6年は雨が多く水が溢れ月河の土堰と石閘の雁翅の被害が深いところで数丈に達し今も未完であることを述べ、金溝・沽頭・隘閘三か所を運用し沽頭の月河内に堰・閘各1を修め隘閘を金溝閘月河あるいは沽頭閘月河に移置し、水量に応じて大小閘を開閉すれば毎年の修治費を省き丁夫の冬寒入水の苦を免れると議し、工部に移文して有司と協議させた。差遣された濠寨が済寧路官と相視し、金溝閘提領の周徳興は毎年夏秋の霖雨で閘堤が壊れるたびに水落ちを待って夫を役し薪を採って修治するのに三か月近くを要し冬寒の水作業は言うに堪えないと述べた。会同して監察御史の言として延祐初年に省臣が隘閘を置いて巨舟を限るべきと請うたことを確認し、これに従うこととし、梭板等の船は御河・江淮を行き来する物として金溝・沽頭両閘の中に隘閘2(各幅1丈)を置いて大船を限り、通恵・会通河での運行は百五十料以下に限り違反者は罰し船を没収すべきとした。大都・江南の権勢の紅頭花船も同様に往来を禁じ、沽頭の隘閘は金溝大閘の南に移置し還環閘とし、その間の空地には北に滚水石堰を作り、水漲れば大小三閘を開き水落ちれば大閘を閉じて隘閘のみ通舟させ、小料船や官用の巨物があれば上司に申して大閘を開かせ、金溝閘には板を増して積水させ行舟を便ならしめる。沽頭の截河土堰は例に依り石堰に改修し旧の土堰三道を尽く除き、金溝閘月河内には滚水石堰(長さ170尺・高さ1丈・幅1丈)を、沽頭閘月河内には截河堰(長さ180尺・高さ1丈1尺、底幅2丈・上幅1丈)を新造した。泰定4年4月、御史台臣は通州から真揚に至る河道を巡視し都水分監と瀕河州県官民から意見を聴取した結果、河の病は壅決と経行の二端に尽きるとし、古来立国して漕運を引くには成式があり、世祖が羣策を屈して万民を済い河渠を疏して清・済・汶・泗を引き閘を立てて水を節し燕薊・江淮の舟楫を万里に通じたのは古来無い規模であり、後人は成規を篤く守りその廃墜を挙行するだけで万世無窮の利であるとし、水性は流変常ならず久しく修めねば旧規は次第に壊れ智者もこれを善くしがたいので、詳しく歴視考証し古を酌み今に準じて衆議を参会したうえ、水監に責任を持たせ謹んで守らせるべきとした。都水監が元に立てた南北の隘閘は各幅9尺で二百料以下の船は梁頭8尺5寸あれば閘に入れるが、愚民が利を貪って舷を減じ倉を増して長船を8、90尺、甚だしくは100尺の五、六百料に改造し閘に入って回転できず淺閣して他舟を阻礙するため、真州で調べたところ過閘船の梁頭8尺5寸なら船長6丈5尺、計200料であることから、隘閘下の岸に石則を立て船が閘に入る際は必ず長さを検量し規格を超えれば入れず違反者は罰すべきとし、閘内の旧来の長船には期限を定めて退出させることとした。省は都水監に濠寨官を委ね済寧路の委官と歴視協議させ、隘閘下約80歩の河北に石則2を立て中間を65尺隔て、舟が至れば検量し規格に合えば入閘を許し、規格を超える長船があれば罰して退去させることとした。また東昌路官とも協議し、元の隘閘の西約1里に定めた寸尺により石則を置き検量し、規格外の行舟には罰を科すこととした。天暦3年(1330年)3月、詔により中外に諭し、都水監は世祖が国家の財用を費やして会通河を開闢し漕運を通じさせたが、往来する使臣・随行の下番百姓や各枝斡脱の権勢の者が閘に到着すれば水則を待たずに勢いで看閘人を鞭打って開閘を強い、また漕運糧船が水浅で河内に土壩を築いて積水させ次第に行舟することで閘を壊していると言上し禁治を求めた。命により諸王・駙馬の各枝の往来使臣・斡脱の権勢の者・下蕃使臣ら、および運官糧船は到着すれば旧の定例により啓閉すべきとし、以前のように水則を待たず勢いをかりて守閘人を鞭打ち強いて閘を開かせたり河内に土壩を築いて閘を壊す者は治罪すること、守閘人が聖旨をかりて開閘すべき時にわざと遅延させ使臣・客旅の往来を阻滞させ賄賂を要求すれば常憲を畏れぬものとして処罰し、監察御史・廉訪司に常に体察させることとした。
兖州閘
- 兖州閘についてはすでに前に見える。至元27年4月、都漕運副使の馬之貞は山東東西道宣慰使司の牒文により兖州閘堰の事を相視し、先に至元12年丞相バヤンの下問に応じ、宋金以来汶泗が相通じていた河道は都水官の按視により漕運を通じ得ると言上したことに始まると述べた。20年、中書省が兵部の李尚書らに石閘14の開鑿を委ねることを奏准。21年、省は之貞と尚監察らを委ね同じく相視し、石閘8・石堰2を修めることとし、すでに完了したもの以外に石閘1・石堰1、堽城の石堰1が未修であること、済州以南の徐邳沿河の撁道橋梁については23年に邳州水站を添立し沿河州県に修治を移文して完成したこと、同年之貞が漕運副使となり閘の管理と綱船の接放を委ねられたが沿河の撁道には元々崩損がなく前年例の麻麦盛期には官を差して撁道を修理し地主に麻麦の刈り取りを督責し滕州の稲堰・泗源磨堰の開決を督し、呂梁百歩等谼および済州閘に人を差して江淮の綱運船が谼を過ぎ閘を出るのを監督し阻滞や客旅からの銭物徴取を防いだことなどを述べた。新たに開かれた会通・済州の汶泗相通の河道は自然の長流河道ではないため兖州に閘堰を立てて泗水を西流させ堽城に閘堰を立てて汶水を分けて河道に入れ済州で合わせ、6閘で水勢を節し啓閉して通舟させ南は淮泗に通じて新開の会通河に入るとした。通州近くでは前年4月、江淮都漕運使司が糧運は済河を経て東阿で交割するが、済州運司の移文により瀕河官司が撁道を修治し緩急のある箇所は正官が取招し省・路の経歴・県の達魯花赤以下が便宜断罪していたところ、済州漕司が革罷され河道が都漕運司に撥属されて以来、本司の糧運が東阿に未着で阻滞があっても本司の遅慢とされ、それより南の河道は管理者がなく不時に水勢が氾溢し堤岸が摧塌し河道が渋滞していると述べた。また済州閘では以前は済州運司の正官が親臨監視し押綱の船戸も争いを起こさなかったが、現在は各処の官司が個別に人を差して管理し綱官・船戸に統一的な統制がなく水勢や過閘の順番を争い殴打しあって船や官糧を損なっているため、東阿の河道を江淮都漕運司の提調管領に撥付すべきとし都省が准した。また江淮都漕運司副使は監官が閘堰を看管する以外に汶泗の堽城二閘一堰・泗河兖州閘堰・済州城南閘は会通河上源の要衝であり、前年の流水で堽城の汶河土堰・兖州泗河土堰が衝壊されたため兖州・泰安州に修閉を移文する必要があり、また漲水が梁山一帯の堤堰を衝破して水勢が旧河に流入し新河の水が小さく渋滞していると述べ、断事等官に移文して東平路に上流の修閉を命じ江淮漕運司に下流を撥属し之貞に管領させ、以後新河の水が小さければ済州監閘官と泰安・兖州・東平が修理すべきとした。兖州の石閘1・石堰1道、堽城の石閘1道は資材の準備が整っているが管轄が定まらず、之貞の相視会計にもかかわらず管轄されていないため江淮漕司に修治を移文すべきとし、泰安州・堽城・梁山一帯の堤岸・済州閘などは江淮漕司に撥属されているとはいえ、今後水漲で堤堰が壊れれば東平・済寧・泰安にも文書が届いた際は奉行させるべきとした。また東阿・須城界の安山閘は糧船が旧河を経由しなくなったため江淮所委の監閘官がすでに去り管理者がない状態であり、之貞に修理させるため権りに人を委ねて守らせることとした。
元史卷六十四