授時暦議下
交食(日食・月食の理論)
- 暦法の疎密は交食(日食・月食)の的中で試される。しかし加時(発生時刻)の早晩や食分の深浅を精密に推算するのは難しい。加時は躔離朒(太陽・月の運行の遅速)に基づき、食分は距交(交点との距離)の遠近に基づくため、入気盈縮・入転遅疾が正しくなければ合朔の時刻がずれ、虧食の時刻も狂う。日月はともに東行するが日は遅く月は速いため月が日に追いつくのを「会」といい、その道には陽暦・陰暦があり交会の時期には中前・中後があり、さらに地形の南北東西や観測者の目の高低・傾きによっても食分の見え方が異なる。
- 授時暦では、合朔が正しければ加時に早晩の差がなく、気刻が適中すれば食分に強弱の誤りがない。この方法を用いて『詩経』『書経』・春秋・三国以降の史書に記された虧食の記録をすべて検証したところ、いずれも合致し、これにより新暦の的中の精度が将来にわたって続くことが確かめられた。
詩書所載の日食二事
- 『書経』胤征篇「仲康の即位、季秋月朔、辰は房に集まらず」(仲康即位5年癸巳の日食)を大衍暦で検証すると、辛巳歳(授時暦の基準年)から遡って3408年前の9月庚戌朔にあたり、泛交26日5421分で入食限となる。
- 『詩経』小雅十月之交「十月の交、朔日辛卯、日之を食す」(幽王を刺る詩)は、梁の太史令虞&KR1184;・大衍暦がともに幽王6年乙丑朔の出来事とする。授時暦で検証すると、この年10月辛卯朔は泛交14日5709分で入食限となり合致する。
春秋日食三十六事
- 春秋242年間に記された36件の日食記事を授時暦で検証した。原文にはそれぞれ杜預・公羊伝・穀梁伝・姜岌(南朝梁の太史)・大衍暦などの旧説と、授時暦による再計算の結果が併記されている。事例は以下のとおり。
- 隠公3年辛酉歳2月己巳、桓公3年壬申歳7月壬辰、桓公17年丙戌歳10月朔、荘公18年乙巳歳3月、荘公25年壬子歳6月辛未朔、荘公26年癸丑歳12月癸亥朔、荘公30年丁巳歳9月庚午朔、僖公12年癸酉歳3月庚午朔、僖公15年丙子歳5月、文公元年乙未歳2月癸亥朔、文公15年己酉歳6月辛丑朔、宣公8年庚申歳7月甲子、宣公10年壬戌歳4月丙辰朔、宣公17年己巳歳6月癸卯、成公16年丙戌歳6月丙寅朔、成公17年丁亥歳12月丁巳朔、襄公14年壬寅歳2月乙未朔、襄公15年癸卯歳8月丁巳朔、襄公20年戊申歳10月丙辰朔、襄公21年己酉歳7月庚戌朔および10月庚辰朔(比月で食があったとする記事は誤りと判断)、襄公23年辛亥歳2月癸酉朔、襄公24年壬子歳7月甲子朔(食既)および8月癸巳朔(比食は誤りと判断)、襄公27年乙卯歳12月乙亥朔、昭公7年丙寅歳4月甲辰朔、昭公15年甲戌歳6月丁巳朔、昭公17年丙子歳6月甲戌朔、昭公21年庚辰歳7月壬午朔、昭公22年辛巳歳12月癸酉朔、昭公24年癸未歳5月乙未朔、昭公31年庚寅歳12月辛亥朔、定公5年丙申歳3月辛亥朔、定公12年癸夘歳11月丙寅朔、定公15年丙午歳8月庚辰朔、哀公14年庚申歳5月庚申朔。
- これらのうち多くは、原記録の日付や朔・晦の記載に閏月の失当や誤字(例:五を三に誤る、十を七に誤るなど)があったと考証されており、授時暦で該当月を1、2か月ずらして再計算すると入食限と合致する事例が大半である。ただし襄公21年10月庚辰朔と24年8月癸巳朔の2件は、比月で日食が続くことは暦理上あり得ないため、記事自体の誤り(姜岌・大衍暦の「誤条」説)と判断された。
- 総括すると、詩書所載2事例と春秋36事例のあわせて38事例のうち、授時暦で検証して入食限とならなかったのはこの2事例のみで、残る35事例はすべて朔日に食があったと確認された。公羊伝・穀梁伝が「食は晦日」とする説は誤りで、左氏伝が「史官の記載漏れ」とする説が正しい。日付のずれは古暦の疎漏による置閏の失当に起因し、姜岌・一行らがすでに定説としている。孔子が『書経』を編む際は当時の暦をそのまま用いたに過ぎず、これは大義に関わらないため深く詮索する必要はない。
三国以来の日食(授時暦と大明暦の比較)
- 蜀漢の章武元年辛丑(221年)6月戊辰晦から元の至元14年丁丑(1277年)10月丙辰朔に至るまで、正史に記された日食を授時暦・大明暦で推算し比較した。主な事例は次のとおり(暦による食甚時刻の一致度を「親」「次親」「疎」「疎逺」と評価)。
- 蜀章武元年辛丑6月戊辰晦(授時・大明とも食甚未五刻、いずれも実際の朔日は7月と判明)。
- 魏黄初3年壬寅11月庚申晦(授時食甚申二刻・大明申三刻、授時がより的中)。
- 梁中大通5年癸丑4月己未朔(授時・大明とも虧初午四刻、いずれも的中)。
- 太清元年丁卯正月己亥朔(授時食甚申一刻・大明申三刻、大明がより的中)。
- 陳太建8年丙申6月戊申朔(授時食甚卯二刻・大明卯四刻、大明は疎逺)。
- 唐永隆元年庚辰11月壬申朔(授時食甚巳七刻・大明巳五刻、授時は疎、大明が的中)。
- 開耀元年辛巳10月丙寅朔(授時食甚辰正三刻・大明辰正一刻、授時が的中)。
- 嗣聖8年辛卯4月壬寅朔、嗣聖17年庚子5月己酉朔、嗣聖19年壬寅9月乙丑朔、景龍元年丁未6月丁卯朔、開元9年辛酉9月己巳朔なども、それぞれ両暦の食甚時刻を比較検証。
- 宋の慶暦6年丙戌3月辛巳朔、皇祐元年己丑正月甲午朔、皇祐5年癸巳10月丙申朔、至和元年甲午4月甲午朔、嘉祐4年己亥正月丙申朔、嘉祐6年辛丑6月壬子朔、治平3年丙午9月壬子朔、熙寧2年己酉7月乙丑朔、元豊3年庚申11月己丑朔、紹聖元年甲戌3月壬申朔、大観元年丁亥11月壬子朔、紹興32年壬午正月戊辰朔、淳熙10年癸夘11月壬戌朔、慶元元年乙卯3月丙戌朔、嘉泰2年壬戌5月甲辰朔、嘉定9年丙子2月甲申朔、淳祐3年癸夘3月丁丑朔についても同様に両暦の食甚(または虧初・復満)時刻を比較。
- 元朝の中統元年庚申3月戊辰朔(授時食甚申正一刻・大明申初三刻、授時が的中、大明は疎)。至元14年丁丑10月丙辰朔(授時は虧初・食甚・復満のいずれも密合または親、大明は虧初が疎、食甚・復満も疎逺)。
- 前代の交食を考証するにあたり、暦の推算が実際の観測記録と同じ刻に一致するものを「密合」、1刻差を「親」、2刻差を「次親」、3刻差を「疎」、4刻差を「疎逺」とする基準で、後漢の章武元年から元朝に至るまで計35事例を比較した結果、密合は授時暦7件・大明暦2件、親は授時暦17件・大明暦16件、次親は授時暦10件・大明暦8件、疎は授時暦1件・大明暦3件、疎逺は授時暦0件・大明暦6件であった。授時暦の精度が大明暦を大きく上回ることが示された。
前代の月食(授時暦と大明暦の比較)
- 宋の元嘉11年甲戌(434年)7月丙子望から元の至元17年庚辰(1280年)8月甲申望に至るまで、正史に記された月食を同様に授時暦・大明暦で比較検証した。主な事例は、劉宋元嘉11年・13年・14年、梁の中大通2年・大同9年、隋の開皇12年・15年・16年、後漢(五代)の天福12年、宋の皇祐4年・嘉祐8年・熙寧2年・4年・6年・7年、崇寧4年、元朝の至元7年・9年・14年・16年(2件)・17年である。それぞれ虧初・食既・食甚・生光・復満の各段階の時刻を両暦で算出し、多くは授時暦の方がより実際の観測に近い(親または密合)結果を示した。
- 総括すると、あわせて45事例のうち、密合は授時暦18件・大明暦11件、親は授時暦18件・大明暦17件、次親は授時暦9件・大明暦14件、疎は授時暦0件・大明暦2件、疎逺は授時暦0件・大明暦1件であり、月食においても授時暦の精度が優れていることが確認された。
定朔(月の朔を実際の合朔時刻で定める方法)
- 太陽は一日一度、月は一日13度19分の7を平行するが、一昼夜で月は太陽より約12度先んじ、29日53刻でようやく太陽に追いつき同度となる。これを「経朔」というが、実際には太陽に盈縮、月に遅疾があるため、これを損益して初めて「定朔」となる。古人の立法は簡略で精密さを欠き、当初は平朔(一大一小の月を機械的に配置)を用いたため、日食が朔の前後2日や望の前後にずれる例があった。
- 漢の張衡は月行を九道に分け、宋の何承天は日行の盈縮から定小余を求め月に三大二小の配置を導入したが、隋の劉孝孫・劉焯がこれを取り入れようとしても「迂怪」として排斥され行われなかった。唐の傅仁均が初めて採用したが、貞観19年9月以降4か月連続で大の月が続いたため再び平朔に戻り、麟徳元年に李淳風の甲子元暦で定朔の法がようやく定着した。淳風はまた晦日に月が見える弊害を避けるため、朔日の小余が日法の4分の3以上の場合は一日繰り上げる「進朔」の法を立て、後代もこれに従った。
- しかし虞&KR1184;は「朔は会同にあり、躔次が合致すれば頻大(連続する大の月)を疑う必要はなく、月が離れれば間小(間隔の小の月)を拒む理由もない」と述べ、一行も「天の事は誠に密なれば四大三小でも何ら問題ない」と述べている。授時暦では単に辰集の時刻が属する日をそのまま定朔とし、進朔の限に達していても繰り上げを行わない。旧来「一大一小」を当然としていた考えに縛られていたため、三大二小の説すら受け入れられなかった経緯があるが、麟徳以降定朔の法が行われても唐人は天に従いきれず平朔を用い続け、元朝の至元に至ってようやく従来の慣習が改められた。進朔の目的は晦日の見月を避けることにあったが、合朔が酉戌亥にあれば前日の卯から18、9辰も離れており進朔すれば晦に月が見えなくなるという理屈は一応成り立つものの、合朔が辰申の間にあれば進朔すべきでないのに前日の卯から既に14、5度を超えていれば結局晦に月が見えてしまう。月の隠見は天道の自然に基づくものであり、朔の進退は人為による強引な操作にすぎない。人為を廃し天に従う(廃人用天)方が実態に即しているとされた。
積年日法を用いない理由
- 暦法の目的は日月の運行や気朔の盈虚を推歩することにあり、その端緒を推し量らなければ天道と符合させることはできない。しかし日月の運行速度や気朔の運びは一様でないため、昔の人は立法にあたり必ず遠い過去に遡って「演紀上元」(日月五星が同度に会する起点)を求めたが、代を重ねるとその数値は億万にも及び、後人はその煩雑な計算を厭って数を断ち切り日法を増減することで改暦の術としてきた。これが歴代の積年・日法が互いに一致しない理由である。しかし施行して間もなく再び差が生じるのは、天道の自然を人為の付会で無理に合わせることができないためである。
- 七政(日月五星)の運行には常度があり、始めから終わりまでを候験して一巡すれば象数は自ずと明らかになる。授時暦は至元辛巳(1281年)を元とし、用いる数値はすべて天に基づき、秒・分・刻・日をいずれも百進法で統一した。これは積年日法を用いる他の暦が人為の付会によって得られたものであるのに対し、自然に即した方法であるとされる。
- ある人は「昔から立暦の根本は必ず元を立て、元が正しく定まってから日法を定め、日法が定まってから周天を度り分至を定めるとされ、暦に積年日法があるのは古くからの伝統であり、黄帝以来の諸暦もこれを祖述して7、80家にのぼる。今これを一切削るのは本源に暗く、考究が足りないのではないか」と疑問を呈するが、これに対しては、晋の杜預が「暦を治める者は天に順って合を求めるべきであり、合を求めて天を検証するのではない」と述べたように、前代の積年演算はあくまで合を求めて天を検証する手段に過ぎず、旧暦の疎漏を正すために釐正するのであれば、旧習に拘泥する必要はないと説かれる。
- そこで漢以来の諸暦の積年・日法および行用年数を以下に列挙し、あわせて演積数法を付して疑問に答える。
歴代暦の積年・日法一覧
- 三統暦(西漢太初元年丁丑、鄧平作、行用188年、東漢元和乙酉まで後天78刻):積年144511、日法81。
- 四分暦(東漢元和2年乙酉、編訢作、行用121年、建安丙戌まで後天7刻):積年10561、日法4。
- 乾象暦(建安11年丙戌、劉洪作、行用31年、魏景初丁巳まで後天7刻):積年8452、日法1457。
- 景初暦(魏景初元年丁巳、楊偉作、行用206年、宋元嘉癸未まで先天50刻):積年5089、日法4559。
- 元嘉暦(宋元嘉20年癸未、何承天作、行用20年、先天50刻):積年6541、日法752。
- 大明暦(宋大明7年癸卯、祖沖之作、行用58年、魏正光辛丑まで後天29刻):積年52757、日法3939。
- 正光暦(後魏正光2年辛丑、李業興作、行用19年、興和庚申まで先天13刻):積年168509、日法74952。
- 興和暦(興和2年庚申、李業興作、行用10年、齊天保庚午まで先天99刻):積年204737、日法208530。
- 天保暦(北齊天保元年庚午、宋景業作、行用17年、周天和丙戌まで後天1日87刻):積年111257、日法23660。
- 天和暦(後周天和元年丙戌、甄鸞作、行用13年、大象己亥まで先天40刻):積年876507、日法23460。
- 大象暦(大象元年己亥、馮顯作、行用5年、隋開皇甲辰まで後天10刻):積年42255、日法12992。
- 開皇暦(隋開皇4年甲辰、張賔作、行用24年、大業戊辰まで後天7刻):積年4129697、日法102960。
- 大業暦(大業4年戊辰、張胄玄作、行用11年、唐武徳己夘まで後天7刻):積年1428317、日法1144。
- 戊寅暦(唐武徳2年己夘、道士傅仁均作、行用46年、麟徳乙丑まで後天47刻):積年165003、日法13600。
- 麟徳暦(麟徳2年乙丑、李淳風作、行用63年、開元戊辰まで後天12刻):積年270497、日法1340。
- 大衍暦(開元16年戊辰、僧一行作、行用34年、寳應壬寅まで先天14刻):積年96962297、日法3040。
- 五紀暦(寳應元年壬寅、郭獻之作、行用23年、貞元乙丑まで後天24刻):積年270497、日法1340。
- 貞元暦(貞元元年乙丑、徐承嗣作、行用27年、長慶壬寅まで先天15刻):積年403397、日法1095。
- 宣明暦(長慶2年壬寅、徐昻作、行用71年、景福癸丑まで先天4刻):積年7070597、日法8400。
- 崇玄暦(景福2年癸丑、邊岡作、行用14年、後63年周顯徳丙辰まで先天4刻):積年53947697、日法13500。
- 欽天暦(五代周顯徳3年丙辰、王朴作、行用5年、宋建隆庚申まで先天2刻):積年72698777、日法7200。
- 応天暦(宋建隆元年庚申、王處訥作、行用21年、太平興国辛巳まで後天2刻):積年4825877、日法10002。
- 乾元暦(太平興国6年辛巳、呉昭素作、行用20年、咸平辛丑まで合致):積年30544277、日法2940。
- 儀天暦(咸平4年辛丑、史序作、行用23年、天聖甲子まで合致):積年716777、日法11000。
- 崇天暦(天聖2年甲子、宋行古作、行用40年、治平甲辰まで後天54刻):積年97556597、日法10590。
- 明天暦(治平元年甲辰、周琮作、行用10年、熙寧甲寅まで合致):積年711977、日法30090。
- 奉元暦(熙寧7年甲寅、衞朴作、行用18年、元祐壬申まで後天7刻):積年83185277、日法23700。
- 観天暦(元祐7年壬申、皇居卿作、行用31年、崇寧癸未まで先天6刻):積年5944997、日法12030。
- 占天暦(崇寧2年癸未、姚舜輔作、行用3年、丙戌まで後天4刻):積年25501937、日法28080。
- 紀元暦(崇寧5年丙戌、姚舜輔作、行用21年、金天會丁未まで合致):積年28613467、日法7290。
- 大明暦(金天會5年丁未、楊級作、行用53年、大定庚子まで合致):積年383768657、日法5230。
- 重修大明暦(大定20年庚子、趙知微重修、行用101年、元朝至元辛巳まで後天19刻):積年88639757、日法5230。
- 統元暦(後宋紹興5年乙夘、陳徳一作、行用32年、乾道丁亥まで合致):積年94251737、日法6930。
- 乾道暦(乾道3年丁亥、劉孝榮作、行用9年、淳熙丙申まで後天1刻):積年91645937、日法30000。
- 淳熙暦(淳熙3年丙申、劉孝榮作、行用15年、紹熙辛亥まで合致):積年52422077、日法5640。
- 会元暦(紹熙2年辛亥、劉孝榮作、行用8年、慶元己未まで後天10刻):積年25494857、日法38700。
- 統天暦(慶元5年己未、楊忠輔作、行用8年、開禧丁夘まで先天6刻):積年3917、日法12000。
- 開禧暦(開禧3年丁夘、鮑澣之作、行用44年、淳祐辛亥まで後天7刻):積年7848257、日法16900。
- 淳祐暦(淳祐10年庚戌、李徳卿作、行用2年、壬子まで合致):積年120267677、日法3530。
- 会天暦(宝祐元年癸丑、譚王作、行用18年、咸淳辛未まで後天1刻):積年11356157、日法9740。
- 成天暦(咸淳7年辛未、陳鼎作、行用4年、至元辛巳まで後天1刻):積年71750857、日法7420。
- (このほか行用されず典籍にのみ伝わる暦が2種)皇極暦(隋大業間、劉焯作、阻難のため不行、唐武徳2年己夘まで先天43刻、積年1009517、日法1242)、乙未暦(金大定20年庚子、耶律履作、不行、辛巳まで後天19刻、積年40452126、日法20690)。
- 授時暦(元至元18年辛巳を元とする)は積年・日法を用いず、実測により以下の値を得た。至元18年辛巳歳の気応55日600分・閏応20日1850分・経朔34日8750分、日法2190(演紀上元己亥から至元辛巳まで98251422算)としたときは気応55日602分・閏応20日1853分・経朔34日8749分、日法8270(演紀上元甲子から至元辛巳まで5670557算、日は甲子より起こす)としたときは気応55日533分・閏応20日1808分・経朔34日8725分、日法6570(演紀上元甲子から至元辛巳まで39752537算)としたときは気応55日631分・閏応20日1919分・経朔34日8712分となる。