繹史范雎、秦の相となる(蔡沢)(范雎相秦(蔡澤附))
- 履歴: 范雎、字は叔。魏の人。須賈の従者として讒言を受け瀕死の暴行を受けたが脱出し、姓名を張禄と変えて秦に入り、遠交近攻の策で昭王に重用され、穰侯ら外戚を退けて相となった。晩年、蔡澤の説得で身を引いた。
屈辱からの脱出と入秦
- (史記より)范雎は須賈に従い斉に使いした際、斉から評価されたことを疑われ、帰国後に魏の相国魏斉から折檻を受け、簀巻きにされ厠に捨てられる屈辱を受けたが、脱出して姓名を張禄と変え、秦の使者王稽に伴われて入秦した。道中、穰侯に見咎められることを警戒した逸話も記される。
昭王への上書と重用
- (史記より)范雎は上書して自らの弁を献じ、昭王に召し出されて謁見、太后・穰侯の専権を憂うる旨を婉曲に語り、呂尚・文王の故事を引いて自らを用いるよう説いた。昭王はこれに深く動かされ、范雎を客卿とした。
遠交近攻策
- (史記より)范雎は「穰侯が韓魏を越えて斉の綱寿を攻めるのは得策でない、遠交近攻(遠国と結び近国を攻める)こそ寸土も王の土地となる」と説き、まず魏に狙いを定めるよう進言した。昭王はこれを容れ、范雎を用いて魏の懐を攻略させた。
- (戦国策より)秦が寧邑を得た際、趙の使者諒毅が秦王の詰問(趙豹・平原君の誅殺要求)を、大王の兄弟に例えて婉曲に躱し、事なきを得た逸話。
韓魏攻略と長平前夜
- (戦国策より)秦が邢邱を落とし魏が服属した際の范雎の献策、秦魏の交誼を巡る唐雎の弁説(魏救援を渋る秦を説得した逸話)。
太后・穰侯らの排斥
- (戦国策より)范雎は昭王に「国に王ありと聞かず、太后・穰侯・涇陽君・華陽君ありと聞く」と痛烈に説き、瓢の喩え・木の枝の喩えを用いて外戚専権の危険を諭した。昭王はついに太后を廃し、穰侯・涇陽君・高陵君らを関外に追放し、范雎を相として応侯に封じた。
睚眦の怨みと一飯の徳
- (史記より)応侯(范雎)は自らを窮地に追いやった須賈に対し、微行して恥辱を与えた末、綈袍の情に免じて命は助けたが、辱めの饗応を与えた。魏斉は恐れて趙の平原君の元に逃れたが、秦の圧力で追い詰められ、信陵君の助けを得られぬまま自刎した。范雎は恩讐に厳格な人物として描かれる。
応侯の権力基盤の揺らぎ
- (史記より)范雎が推挙した鄭安平が趙に降伏し、王稽も法に触れて誅殺され、応侯は次第に立場を失った。魏の信陵君(無忌)が秦の暴虐を諫めた長弁も付される。
蔡澤の登場と応侯の引退
- (史記より)燕人蔡澤は人相見唐挙に「寿は四十三年」と言われながらも野心を抱き、応侯の弱みを見透かして接近。商鞅・呉起・大夫種の故事を引き「功成り名遂げて退かざれば禍あり」と説き、日中則移・月満則虧の理を説いて応侯を説得した。范雎はこれに感じて昭王に蔡澤を推挙し、自らは病と称して相印を返上、蔡澤が代わって相となった。
- 太史公は「范雎・蔡澤はいずれも一切の弁士だが、困厄を経たからこそ発奮し得た」と評す。
秦昭王期の余話
- 割注に、秦昭王の病を巡り里人が牛を殺して祈った逸話への公孫衍・閻遏の応対、秦王と中期の論争、及び秦昭王が華山に博戯の跡を刻ませた故事、名剣「誡」の銘などが付記される。