繹史魏冉、秦の相となる(白起の梁楚攻め)(魏冉相秦(白起攻梁破楚))
- 履歴: 穰侯魏冉。秦昭王の母宣太后の異父弟。昭王擁立の功臣として長く秦の相を務め、白起を将軍に登用して韓魏楚を連破したが、晩年に范雎の弾劾を受けて失脚した。
昭王の即位と魏冉の擁立
- (史記より)武王が力士孟説と鼎を挙げて死んだ後、異母弟の昭襄王が立ったが、庶長壮ら公子の内紛が起き、魏冉が将軍として咸陽を守り乱を鎮めて昭王を擁立した。宣太后が政を執り魏冉が実権を握った。
- (戦国策より)趙が魏冉を秦相に推挙しようとした駆け引きの逸話。
白起の登場と伊闕の戦い
- (史記より)白起は郿の人。昭王十三年、左庶長として韓の新城を攻め、翌年魏冉の推挙で向寿と共に韓魏を伊闕で大破、二十四万を斬首し公孫喜を虜とした。
- (戦国策より)この敗戦を受けた東周・魏の外交駆け引き(竇屢・綦母恢らの弁)が詳述される。
秦の東方進出と魏冉の封邑
- (史記より)白起はさらに魏の垣・楚の宛葉を取り、魏冉は穣に封ぜられ後に陶を加増されて穰侯と号した。
- (戦国策より)魏の芒卯が詐術で鄴を巡り趙秦を出し抜いた逸話、秦の白起が魏を大小六十一城破った件。
西帝東帝の僭称と取消
- (史記より)昭王十九年、秦は西帝、斉は東帝を称したが月余りで取り消した。蘇代は斉湣王に「帝号を称せば天下の恨みを買うが、称さねば天下は斉を愛す」と説き、斉に帝号を返上させ「桀宋(宋)」討伐に専念させた。
白起の連戦連勝と楚都陥落
- (史記より)秦は韓魏を次々破り(華陽の戦いで魏軍十五万を斬首等)、昭王二十八年には白起が楚の鄢・鄧を落とし、二十九年には郢を陥落させて南郡とし、楚王は陳に遷都を余儀なくされた。白起は武安君に封ぜられた。
- 楚の頃襄王期、荘辛が「君王が佞臣に耽溺すれば亡国に至る」と蜻蛉・黄雀・黄鵠・蔡霊侯の比喩を連ねて諫めた逸話(説苑にも荘辛の言行が付される)。
穰侯の権勢と范雎の弾劾
- (史記より)穰侯は白起を挙用した縁で権勢を強め、その富は王室を凌いだ。魏公子牟が「勢い・富・貴・驕・罪・死は連鎖する」と穰侯を戒めた逸話。
- 昭王三十二年、穰侯自ら大梁を攻囲した際、須賈が「秦の貪欲は際限なく、衛趙のように隠忍して国を保つべし」と説き囲みを解かせた(戦国策にも同趣旨あり)。以後も穰侯・白起・客卿胡陽らが韓魏趙を連破した。
- 蘇代が穰侯に「趙への援兵増派は秦自身の利にならない」と書を送り、穰侯は兵を退いた。
- 楚の春申君黄歇が、秦が韓魏を破り楚に迫った際、秦昭王に「両虎相闘えば駑犬が利を得る」の喩えで秦楚共倒れの危険を説き、白起の楚攻めを中止させた(列女伝には荘姪が頃襄王を諫めた異話も付される)。
- 昭王三十六年、范雎(張禄)が「穰侯が斉を攻め自らの陶邑を広げようとするのは秦のためにならない」と昭王に説き、また宣太后・穰侯・涇陽君・華陽君ら外戚の専横を指摘したことで、昭王は穰侯を免じ、外戚を関外に追放した。太史公は「穰侯の功は大きかったが、富貴を極めて一夫の説に敗れた」と評す。
- 四十二年、宣太后が薨じ(戦国策に殉死を望んだ愛人魏醜夫を庸芮の弁で助命させた逸話が付される)、穰侯も陶に出され、四十五年には公子悝も国を出ず死去した。