繹史趙武霊王、胡服し中山を攻める(趙武靈王胡服攻中山(李兌之亂附))

  • 履歴: 趙武霊王(在位前325年頃-前299年、名は雍、粛侯の子)。即位後、胡服騎射の軍制改革を断行し、中山・胡地を攻略した。晩年、子の恵文王に位を譲って自ら「主父」と称したが、長子公子章の反乱(沙丘の変)に巻き込まれ、前前295年頃、宮中に幽閉されて餓死した。

中山の称王をめぐる外交

  • (戦国策より)五国が互いに王を称し合う中、斉は中山が同列に王を称することを恥じ、趙・魏と共に中山を攻めて王号を廃させようとした。中山の遊説家張登は斉の重臣田嬰に、中山を廃するより懐柔して斉に付かせる方が得策と説き、田嬰の腹心張丑の反対を押し切って中山の王号を斉が承認する策を進言、これに趙・魏も乗じて逆に中山と結び、斉は孤立した。
  • (戦国策より)別伝として、中山が燕・趙と共に王を称した際、斉が中山との通交を断って攻めようとした逸話がある。斉の重臣藍諸君に対し張登は、中山を滅ぼそうとするより逆に燕・趙の疑心を煽って中山を孤立させる計を説き、藍諸君はこれを用いて燕・趙をつなぎとめた。

武霊王の即位と孟姚

  • (史記より)武霊王は父粛侯の死を受けて即位。夢に舞う女性を見て以来忘れられず、後に呉広がその娘娃嬴(孟姚)を献じ、王に寵愛されて恵后となった。
  • (史記割注より)『呂氏春秋』に、白圭が中山および斉に留められかけたが固辞して去った逸話、亡国の兆し「五盡」の説(信・誉・親・財・功のいずれかが尽きれば国は滅ぶとする)が付記される。また『韓非子』に、中山の相楽池が趙の食客を将としたが統率できなかった逸話、遊説家魯丹が中山の君に三度説いて容れられず、金品を贈って寵を得たものの、かえって讒言され国を追われた逸話が付記される。

中山の宮廷をめぐる逸話

  • (戦国策より)司馬喜は趙の後ろ盾で中山の相となろうとした公孫宏の企てを見抜き、逆に趙の信用を得て三度中山の相となった。
  • (戦国策より)司馬喜は隂姫を中山王の后に立てるため、趙王に隂姫の美貌を吹き込んで所望させ、中山王の危機感を煽って隂姫を后に立てさせる策を用いた。
  • (韓非子割注より)司馬喜が趙に中山の内情を密告していたこと、季辛と爰騫の私怨を利用して爰騫を殺させた事件、墨者の非攻論に対し「趙が中山を攻めるのも同罪ではないか」と切り返されて応答できなかった逸話が付記される。

胡服騎射の議

  • (史記より)武霊王十九年、肥義と天下の情勢を論じ、簡王・襄王の遺業を継いで胡地を開拓する意志を固めた。
  • (戦国策より)肥義は「疑事無功、疑行無名」として王を励まし、王は自ら胡服(騎馬民族風の服制)を採用、まず叔父の公子成を説得しようとした。公子成は当初、中華の礼を捨てることに強く反対したが、王が「利民のため風俗は時に応じて変えるべき」と説き、簡王・襄王が胡地・代を得た故事や中山への旧怨を挙げて説得し、公子成は服従した。
  • (戦国策より)続いて重臣趙文・趙造も伝統墨守を説いて諫めたが、王は「三代・五霸も礼法は同じでない、時に応じて法を改めるのが聖人の道」と反論し、押し切って胡服を国内に徹底させた。
  • (割注より)『竹書紀年』に魏でも同時期に貂服が採用された記事、『淮南子』『釈名』に武霊王が貝帯・鵕鸃冠を身につけ趙国の風俗を変えたとする記述が付記される。

中山攻略と諸国外交

  • (史記より)二十年、中山・胡地を攻略し、諸国へ使者を送って外交を固めた。二十一年には諸軍を編成して中山を攻め、鄗・石邑・封龍・東垣を得て中山と講和。二十三年、二十五年にも中山を攻めた。
  • (史記より)二十五年、恵后が没し、周紹を王子何(後の恵文王)の傅に任じた。

周紹を傅に任じる問答

  • (戦国策より)武霊王は周紹の孝行・忠義を評価して王子の傅に選ぼうとしたが、周紹は「智慮・寛恵・威厳・利欲・恭敬・和順」の六徳を傅の条件として挙げ、自らはこれに及ばないと固辞した。王は重ねて命じ、周紹はついに拝命して胡服を賜った。

胡服をめぐる余話

  • (戦国策より)趙燕が胡服化に遅れたのを王が譴責すると、趙燕は服従を誓った。
  • (戦国策より)王が原陽を騎兵の邑に改めようとした際、牛賛は旧制度の変更に反対したが、王は「時に応じて兵制も変えるべき」と説いて押し切り、胡服の騎兵を率いて胡地深くまで攻め入り千里の地を得た。

主父の秦潜入と王位継承

  • (史記より)二十六年に再び中山を攻めて北の燕・代の境まで領土を広げ、二十七年、王子何に位を譲って恵文王とし、自らは「主父」と称して国政の後見にあたった。主父は自ら秦への使者と偽って咸陽に入り、秦王の器量を偵察した(秦昭王はその威容を怪しみ、後に主父と知って驚いた)。
  • (鶡冠子より)武霊王が龐煥に「戦わずして勝つ」ことの意義を問い、計謀による勝利(隱経の法)を最上とする議論を交わした故事が伝わる。

中山の滅亡

  • (韓非子より)主父は李疵を中山偵察に派遣し、「君主が隠士を重んじすぎて戦士・農民が怠惰になっている」との報告を受け、中山を攻めて滅ぼした。
  • (割注より)主父が工人に命じて険崖に足跡を刻ませた逸話、『世本』の中山国の変遷(顧から霊寿へ遷り、武公・桓公を経て趙武霊王に滅ぼされる)が付記される。

沙丘の変

  • (史記より)恵文王二年、主父は新領地を巡幸して代・楼煩と結び、三年に中山を滅ぼしてその王を膚施に遷した。長子章を安陽君に封じたが、章は弟(恵文王)の下位に甘んじず驕慢となり、田不礼と結んで謀反の兆しを見せた。
  • (史記より)李兌は肥義に危険を説いて引退を勧めたが、肥義は主父からの遺命を守り「変節せず職を全うする」と拒み、信期にも公子章と田不礼への警戒を語った。
  • (史記より)主父が羣臣朝賀の場で長子章の卑屈な様子を憐れみ、趙を分割して章を代の王にしようと考え始めた矢先、主父・恵文王が沙丘に遊行した際、公子章が田不礼と共に主父の命と偽って恵文王を呼び出し反乱を起こした。肥義は先に入って身代わりとなり殺され、公子成・李兌が国から兵を興して章と田不礼を討った。章は主父の宮に逃げ込み匿われたが、公子成・李兌は「章を理由に囲みを解けば我らが誅される」として主父の宮を包囲し続け、主父は三ヶ月余り宮中に閉じ込められて餓死した。
  • (史記の論評より)武霊王が長子章を廃して幼子何を立てたことが父子相討つ悲劇の遠因となったと評される。
  • (韓非子割注より)「重は軽の根、静は躁の君」との喩えで、主父が自ら位を退いて実権(輜重)を失ったことが命取りになったと論じる一節が付記される。

李兌治中山と蘇秦の説得

  • (韓非子より)李兌が中山の苦陘の令が報告した多額の収入を「窕言・窕貨」(道理に外れた言説・不当な財)として退けようとしたが、豊作や善政による増収は不正ではないとする反論が付記される(編者按:この逸話はあるいは魏の李克が中山を治めた故事の誤伝ではないかとする)。
  • (戦国策より)貧しい遊説家蘇秦(蘇子)は李兌に「土偶と木偶の争い」の寓話で自らの価値を説き、主父を死なせた李兌の危うい立場を指摘して仕官を求めた。李兌の食客は当初蘇秦を軽んじるよう勧めたが、後に翻意して厚遇し、蘇秦は明月の珠や黄金など莫大な贈り物を得て秦へ向かった(編者按:この一段の文意から見て、主父を死に至らしめた計略に秦が関与したとする説は誤りである)。