繹史小邾(曹姓子爵、邾の分封)(小邾(曹姓子爵、邾の分家。当初は郳と号した附庸国)・蕭(附庸、一説に宋の支庶・蕭叔大心が宋萬討伐の功により封じられた国))
小邾(郳)の対魯外交(左傳・公羊傳・穀梁傳)
- (左傳・公羊傳・穀梁傳より)荘公5年秋、郳犂来(小邾の君主)が来朝したが、まだ王命による爵位を受けていなかったため実名で記された。小邾は微小国のため「郳」と呼ばれ、正式な国名では通じなかったことが説明される。
- (左傳より)襄公7年、小邾穆公が来朝(初めての正式な朝見)。
- (左傳より)昭公3年、小邾穆公が来朝した際、季武子はこれを軽んじようとしたが、穆叔は「曹・滕・二邾は我らとの旧誼を忘れていない、敬意をもって迎えねば他の友好国からも疑われる」と諫め、季孫はこれに従った。
- (左傳より)17年春、小邾穆公が来朝し、公は宴を催して詩を賦した(季平子が「采叔」、穆公が「菁菁者莪」を賦し、昭子は「国がこれで久しく保てるだろうか」と評した)。
- (左傳より)哀公14年、小邾の臣・射が句繹の地を持って魯に出奔し、子路に盟約の保証人になってほしいと求めた。子路はこれを固辞し、季康子が冉有を通じて「大国の盟約より汝の言葉の方が信頼されている、なぜ引き受けぬのか」と説得したが、子路は「魯が小邾のために事を構えても、彼が臣節を守らぬ者の言に義を認めることになる」として最後まで拒んだ。
蕭叔の来朝(公羊傳・穀梁傳)
- (公羊傳・穀梁傳より)荘公23年、蕭叔が魯の公が国外にいる時に来朝したことが記され、微小国の未だ爵命を受けていない君主が国外で朝見するのは正礼ではなく、朝見は本来宗廟で行うべきものとされる。