繹史楚の恵王、陳を滅ぼす(楚惠王滅陳)

陳懐公の去就と呉楚の争い

  • (左傳より)哀公元年、呉が楚に入った際、陳懷公に従属を問うたところ、国人の意見は分かれた。逢滑は「楚は無徳だが未だ禍はなく、呉は日々兵で骨を野に晒しており、禍はやがて呉に及ぶ」と述べ、陳侯は楚に従うことを選んだ。夫差が越を破ると旧怨により陳を攻め、六年にも再び陳を伐ったため、楚は城父に師を出して救援した。
  • (禮記・檀弓より)呉が陳を侵した際、祭祀の場を斬り病者を殺す暴挙を行ったが、陳の大宰嚭が呉の行人儀に「古の侵伐は祭祀を犯さず病者を殺さぬのが礼」と説いたところ、呉は師の名を改めて「地を返し子を帰す師」と称した逸話を載せる。

昭王の死と惠王の即位

  • (左傳より)楚子(昭王)は城父で陳の救援中に病を得た。卜占はいずれも凶と出たが、昭王は「死は避けられぬ。讎に死ぬ方がまし」と述べ、子閭に王位を譲ろうとしたが固辞され、子西・子期と謀り、越女の子・章(後の惠王)を立てて陣を退いた。空に衆赤鳥の異変があった際、周の大史は「王の身に禍が及ぶが令尹・司馬に移せる」と述べたが、昭王は「腹心の疾いを股肱に移して何の益があろうか」と拒み、河の祭祀による延命の勧めも「楚の望(祭祀対象)は江漢睢漳に限られる」として退けた。孔子はこれを「大道を知る君」と称えた。
  • (列女傳より)越姬・蔡姬の逸話:昭王が遊興の折「生死を共に」と二人に約したが、越姬は「先君荘王は淫楽を悔い改めて覇を成した。王も政に励むべき」と諫めて即答を避けた。後に昭王が城父で発病した際、越姬は「信は言を違えぬもの」として殉死を選び、王の死後に自殺した(蔡姬は結局殉じなかった)。王弟の子閭・子西・子期は「信ある母の子は必ず仁がある」として越姬の子・章(惠王)を立てた。

陳の従属を巡る呉楚の応酬

  • 九年・十年、楚は陳を伐ち(陳が呉に従ったため)、呉の延州来季子(季札)は子期に「徳を務めず力で争うのは民に罪がない」と説いて撤兵させた(韓非子には別に公子(子西)の楚伐陳をめぐる逸話、雨中の呉楚攻防戦の逸話も付す)。
  • (韓詩外傳より)楚が陳を伐った際、陳の西門修復に従事する民が多かったが、孔子は式(敬礼)をせず、「国が亡びかけているのに気づかぬのは不智、気づいても争わぬのは不忠、亡んでも死なぬのは不勇。門を修める者が多くとも、この三つのうち一つも行っていない」と評した。
  • 十一年、陳の轅頗は公女の輿入れのため過剰な賦税を課したことで国人に逐われ鄭へ出奔した。
  • 十五年、楚が呉を伐った際、陳侯の使者・公孫貞子が弔問の途上で客死し、呉は当初その屍の受け入れを拒んだが、副使の芋尹蓋が「屍をもって使命を果たすのが礼」と説き、呉はこれを容れた。

昭奚恤の弁「楚の宝は賢臣にあり」

  • (新序より)秦が楚の宝器を観察させようとした際、令尹子西は答えられなかったが、昭奚恤は「これは我が国の実情を探る使いであり、宝器ではなく賢臣を示すべき」と述べ、令尹子西・太宗子敖・葉公子高・司馬子反ら重臣を各方位に配し、「楚国の宝は賢臣にあり」と応じて秦の使者を退けた。秦はついに楚討伐を断念した(編者按:子反と昭奚恤は本来時代が異なる人物であり、この話は史実として全面的には信じがたいと付す)。

陳の滅亡

  • 十七年、楚の白公の乱の後、陳が楚の混乱に乗じて侵したため、楚は麦を刈りに陳へ師を出すこととなり、帥の人選をめぐり子穀は「観丁父・彭仲爽はいずれも捕虜の身から武王・文王に用いられ大功を立てた」と身分によらぬ登用を説いたが、葉公子高は「令尹に私怨があり、天がもし陳を亡ぼすならそれは令尹の子に絡む話であろう」と危惧を示した。結局、武城尹(吉)が師を率いて陳の麦を取り、公孫朝が陳を滅ぼした。
  • (呂氏春秋より)陳侯が醜男・敦洽讎糜を寵愛し内政・外交を任せたため、楚の使者としてこの者が赴いた際に楚王の怒りを買い、これが陳討伐の一因になったという逸話も付す。

惠王の治世

  • 十八年、巴が楚を伐った際、卜占によらず「志向がすでに定まっている以上、占うまでもない」と右司馬子国を用いて巴師を破った。君子はこれを「聖人は卜筮を煩わせない」道理として評価した。
  • (淮南子より)太宰子朱が令尹子国の粗略な礼を厭って辞官した逸話を付す。
  • (新序より)惠王が寒葅(塩漬け野菜)を食べて蛭を見つけたが、庖人・食監を罰することで法が乱れることを恐れ、自ら呑み込んだ。令尹はこれを「天道無親、惟徳是輔」と讃え、後に病が癒えたと伝える。
  • (国語より)惠王が梁の地を魯陽文子に与えようとしたが、文子は「梁は険阻で子孫に貳心を生ませかねない」と辞退し、代わりに魯陽の地を受けた。
  • (史記より)惠王四十二年に蔡を滅ぼし、四十四年に杞を滅ぼして秦と和し、簡王元年には莒を滅ぼすなど、楚は江淮の北へと勢力を広げた。

編者按

かつて楚の靈王が陳・蔡を滅ぼして県としたが、平王の即位により両国とも復興させ、春秋はこれを礼と評した。陳の惠公の帰国後、雞父の戦で陳の夏齧が楚に従い捕虜となったこと以外に大きな出来事はなく、懐公の代に呉が召しても逢滑の諫言により当初は楚を捨てなかった。しかし閔公の代には専ら楚に従い頓を滅ぼし蔡を囲むなど、呉楚いずれも貪欲な点では変わらぬのに、陳は結局楚に虐げられ社稷を墟とされた。楚の棄疾(後の平王)が滅亡を懲りて陳の復興を興したのは名目に過ぎず、怨みは徳より深かった。楚惠王の即位後、陳はまた楚に叛いて呉に付いたが、これは夫差の盛時に頼ってのことであり、昭王死後もその怨みを問われて伐たれた。陳は楚に従えば呉に侵され、呉に従えば楚に伐たれるという板挟みの末、哀公十七年についに楚に滅ぼされた。かつて靈王が陳を滅ぼした時、裨竈は「五年で陳は復興し、歳が鶉火に至って後にようやく陳は完全に亡ぶ」と予言しており、それから五十二年を経てこの予言は的中した。陳の始祖は舜の末裔・胡公満であり、有虞氏の血脈、大姬の子孫として社稷は失われても子孫の血筋は絶えず、後に田氏として斉に興った。「陳を亡ぼす者は楚、斉を亡ぼす者は陳」という因果もまた天道の妙であろう。