祭祀・食事の作法
- (禮記より)孔子は祭祀に臨んでは慎み深く敬虔であったが、他方で華美な「済済漆漆」たる容儀を誇示するような祭り方はせず、その理由を「容儀を遠くに置くより、自ら反省し誠を尽くすことが神明と交わる道である」と説いた。食事では、季氏の家で招かれた際は主人の礼に従って作法を変え、少施氏の家では控えめな言葉で礼を返すなど、招く側の礼の厚薄に応じて客としての振る舞いを変えた。射礼(矍相の圃での大射)では、敗軍の将・亡国の大夫・人の後継ぎとなった者を場から退けさせ、老幼それぞれの徳目を述べて場を分けた。厩が焼けた際は、火事見舞いに来た郷人へ身分に応じた拝礼で応えた。
尊敬した先人たち
- (史記・荀子より)孔子が師と仰いだ人物として、周の老子、衛の蘧伯玉、斉の晏平仲、楚の老萊子、鄭の子産が挙げられ、また孟公綽がしばしば称えた臧文仲・柳下恵・銅鞮伯華・介山子然についても、孔子は同時代人ではないため直接会うことはなかったと注記される。子家駒・晏子・子産・管仲の評価の優劣を論じる話も伝わる。
杖に込めた尊卑の教え
- (呂氏春秋・新書より)遠方から来た弟子を迎えるにあたり、杖の持ち方・体の傾け方を、相手の父・母・兄弟・妻子への言及に応じて微妙に変え、六尺の杖一本で貴賤疎親の別を示したという。
姉の喪への配慮
- (禮記より)門人たちと立つ際、孔子だけが尚右(右手を上に組む、凶事の作法)をしたのは、姉の喪に服していたためであり、門人はこれを知らずに右を尚んだが、孔子が「あなた方が学問を好んでのことなら」と説くと、以後は正しく尚左に改めた。
日常の様子と教えの要諦(論語の要約)
- (史記より)孔子の教えは文・行・忠・信の四つを重んじ、意(私意)・必(独断)・固(固執)・我(我執)の四つを絶ち、斎戒・戦争・疾病には特に慎重であった。利・命・仁については多く語らず、一を挙げて三を反せぬ者には重ねて教えなかった。郷里では慎み深く、朝廷では明晰に語り、公門を出入りする際の恭しい振る舞い、喪にある者の傍らでは食に飽くことがなかったなど、日常の細やかな挙措が伝えられる。「三人行けば必ず我が師あり」「怪力乱神を語らず」など著名な言葉のほか、達巷党の童子の評に「執御(御者)を執ろう」と謙遜して応じた話、「天を怨みず人を尤めず」の述懐、伯夷叔斉・柳下恵・虞仲らへの人物評、「無可無不可(可も不可もなし)」との自己評価も記される。
潔癖と慎み
- (説文・尸子・論衡より)正しくない席には座らず、正しく切られていない肉は食べず、「盗泉」という名を嫌ってその水を飲まなかった。魯の城門が朽ちているのを見て急いで通り過ぎ、「不幸にして壊れるのに遭うのを避ける」との考えを述べた。また陽虎を畏れて足早に立ち去り汗を流したという話も伝わる。
仮と献の区別
- (家語より)季孫氏の家臣が主君の名で馬を借りようとしたのを聞き、孔子は「君が臣から取るのを取、与えるのを賜、臣が君から取るのを仮、与えるのを献という」と正名を説き、季孫氏はこれを機に「仮」という言葉遣いを改めさせた。
桃と黍の食べ方
- (韓非子より)魯哀公から桃と黍を賜った際、孔子はまず黍を食べてから桃を食べ、左右の失笑を買ったが、「黍は五穀の長で宗廟の上盛、桃は果物の下位であり、貴を以て賤を拭うことはあっても、その逆はない」と、儀礼の理を説いて弁明した。
火事の賞罰の知恵
- (韓非子より)魯で山火事が起きた際、哀公が獣を追う者ばかりで消火が進まないのを憂うと、孔子は「消火は苦しく賞がなく、狩猟は楽しく罰もないため人が集まらない」と分析し、消火をしない者を敗走の罪に、狩猟をする者を禁を犯す罪に準ずると布告させ、たちまち火は消し止められた。
為政の要諦
- (史記・説苑より)季康子の問いに「まっすぐな者を挙げて曲がった者の上に置けば、曲がった者もまっすぐになる」「あなたが欲さなければ、賞を与えても民は盗まない」と答えた。また季康子への謁見の頻度を弟子に問われた際、「魯国では長らく力で相凌ぐ乱れが続いており、治世のために先んじて自ら刑罰に服する姿勢を示すべきだ」と述べ、実際にこれ以後国内の争いは収まったとされる。
同僚の喪服
- (孔叢子より)秦の荘子が死んだ際、同僚の喪服の可否を問われた孔子は、身分が異なっても同官として助け合った誼から朋友の服を着るべきだとし、周の虢叔ら五官の同僚が互いに服喪した故事を引いた。
喪への向き合い方(複数の逸話)
- (禮記より)古くからの友人原壌が母の喪にあっても歌い興じたのに対し、孔子は「親しき者を親しき者として、故き者を故き者として遇するのみ」と咎めずに接した。友人伯高の訃報には、関係の深さに応じて哭する場所を変える細やかな礼を説き、冉子が使者の到着前に勝手に贈り物をしたことをやや異とした。衛で旧知の宿の主人の喪に遭った際は、涙を流した勢いで駿馬を外して弔いの品としたが、これも「涙を流しながら何も贈らないのは忍びない」との情による判断であった。「生きている者は我が家に泊め、死せる者は我が家で殯する」との言葉も伝わる。
馬が農夫の稲を食べた話
- (淮南子・呂氏春秋より)孔子の馬が逃げて農夫の稲を食べてしまった際、子貢が丁重な言葉で説いても許されなかったが、馬飼いの下男が「あなたが東海を耕さねば、私も西海を耕さない。私の馬があなたの苗を食べても仕方あるまい」と俗な言葉で説くと、農夫は喜んで馬を返した。孔子はこれを「巧みでも通じない説得より、拙くても届く説得が勝る」例として語った。
程子との出会い
- (家語より)郯へ赴く途中で賢者程子と道で出会い、車の傘を傾けて一日中語り合った孔子は、子路に贈り物をするよう命じ、「賢者に出会って贈らねば二度と会えぬ」と詩を引いてその場での交誼を重んじた。
質素な食事を喜ぶ
- (説苑より)魯の質素な者が瓦の器で煮た食事を献じたのを、孔子は大牢の饗応のように喜んで受け、「食を美味と感じるのは、その者が親を思う心のゆえだ」と述べた。
漁師の贈り物を祭る
- (家語より)楚で漁師が売れ残りの魚を献じたのを固辞せず受け取り、弟子には「腐らせるより施そうとする仁者の志を無にしてはならない」として、これを祭祀に用いさせた。
皋魚の孝の嘆き
- (韓詩外伝より)道で泣く皋魚に理由を問うと、遊学のため親を失い、志を高く保つため主君に仕える機会を逸し、友との交わりを絶ったことの三つの後悔を語り、「木は静かにあろうとしても風は止まず、子は養おうとしても親は待ってくれない」と嘆いて立ったまま息絶えた。これを聞いた孔子の門人のうち十三人が郷里に帰って親を養ったという。
「苛政は虎よりも猛し」
- (禮記より)泰山のふもとで、虎に舅・夫・子を奪われながらも苛政のない土地を離れないと語る婦人に出会い、孔子は弟子に「苛政は虎よりも猛し」と教えた。
喪の儀礼への評
- (禮記より)衛での葬送の様子を見て「往くときは慕うように、還るときは疑うように(未練を残すように)」進むのを模範と評し、子貢の「速やかに戻って虞祭をした方がよいのでは」との問いには、自分もまだそこまでは行えないと謙遜した。また子供の泣き方が激しすぎて継続できない例、哭に節度を持たせ礼として継承できる形にすべきこと、根拠のない哭き方を嫌ったことも記される。
阿谷の処女との問答
- (韓詩外伝より)楚に赴く途中、川辺で衣を洗う女性に子貢を遣わして言葉を交わさせ、飲水・琴の弦・絺(布)の贈り物のやり取りを通じてその応対の巧みさを試した逸話が伝わるが、後世の作り話とする見方もある。
弓を失う話
- (説苑より)楚の共王が狩りで弓を失った際「楚人が失い楚人が得るのだから捜す必要はない」と言ったのを聞いた孔子は、「惜しいのは『楚』の一字にこだわったこと、ただ人が失い人が得ると言えばよいものを」と評した。
公索氏の予言
- (説苑より)祭祀の犠牲を失った公索氏について、孔子は「祭とは尽くすことであり、犠牲すら失うのはすでに多くを失っている証だ」として三年以内の滅亡を予言し、的中した。
人物評の逸話
- (説苑・呂氏春秋より)かつて栄達しながら人を推挙も助けもしなかった東閭子の乞食の身の上を聞き、孔子は「得失には応分の理がある」と評した。介子推が若くして楚の宰相となった際、周囲の人材の質を聞いて「これなら国を保てるだろう」と評した。荊の次非が蛟を斬って人々を救った勇気を「腐肉朽骨のように命を惜しまなかった」と称え、一方で父の羊泥棒を密告してから自ら身代わりになろうとした「直躬」の行いについては、名声を求めた不徹底な「信」であると批判した。
人物鑑識眼
- (荘子より)沙丘の宿の主人を一目見て「弁士である」と見抜いた逸話が伝わる(現行の荘子には見えない異文とされる)。
慎重さの教え
- (説苑より)羅(網)で黄口(若鳥)ばかりが捕えられ大きな鳥が捕れないのを見て、孔子は「大きな鳥は若鳥の群れに従うために捕らえられない」との説明を聞き、「君子は付き従う相手を慎むべきだ、そうでなければ網にかかる患いがある」と弟子に説いた。
飼い犬の埋葬
- (禮記より)飼い犬が死んだ際、子貢に埋めさせ、「古い帷は馬を埋めるために、古い車蓋は犬を埋めるために取っておく」という言い伝えを引きつつ、貧しくて蓋がない代わりに筵をかけて頭が土に直に触れぬようにさせた。
好んだ食物・衣服
- (呂氏春秋・禮記より)文王が好んだ菖蒲の漬物を、顔をしかめながらも三年かけて食べられるようになったという話や、象牙の環に組紐の綬をつけて身を飾ったことなどが伝わる。
「東家の丘」という俗称
- (顔氏家訓より)魯の人々は孔子を評価せず、単に「東隣の丘(東家丘)」と呼んでいたと伝わる。
体力と体格にまつわる伝承
- (列子・淮南子・史記より)国門の閂を引き抜くほどの力を持ちながらそれを誇らなかったとされ、身長は九尺六寸に及び、当時の人々に「長人」と呼ばれ異とされた。緯書には身長十尺・並外れた体格を持つ聖人の相を誇張して描く記述もあるが、これらは緯書特有の誇張表現である。