繹史孔子類記(三)删述(下)(孔子類記(三) 刪述下)
獲麟と絶筆
- (左傳より)哀公十四年春、大野で狩りをした際、叔孫氏の御者鉏商が麟を得たが、人々はこれを不祥として虞人に与えた。仲尼はこれを見て「麟なり」と述べ、以後これを取り上げた。
- (公羊傳・穀梁傳より)麟は仁獣であり、王者があれば至り、なければ至らないとされる異獣である。孔子はこれを見て袂を返して顔を拭い涙を沾らし、「わが道窮まれり」と嘆いた。かつて顔淵の死には「天、予を喪ぼせり」、子路の死には「天、予を祝てり」と嘆いた孔子にとって、獲麟はさらに深い喪失の予兆であった。春秋は隠公に始まり哀公十四年で終わるが、乱世を正しきに反す意図で編まれたとされる。
- (孔叢子より)叔孫氏の御者鉏商が野で麟を得て五父の衢に棄てた際、冉有の報告を受けた孔子が現地に赴き、麟であることを確かめた。言偃の問いに孔子は「天子が徳を布いて太平が来るときにこそ麟鳳亀龍が瑞祥として現れるが、今は宗周が滅びようとしており、誰のために来たのか」と述べ、「予の人におけるは麟の獣における如し、麟出でて死す、わが道窮まれり」と泣いて歌を詠んだ。
春秋の編纂
- (史記より)魯で用いられず名を後世に残せぬことを憂えた孔子は、魯の史記に基づいて春秋を著し、隠公から哀公十四年に至る十二公の記事を、周を宗とし殷の運を鑑みつつ簡潔な文辞に大義を込めて編んだ。呉楚の君が王を自称しても「子」と貶め、践土の会で実際は諸侯が周天子を召したのを「天王河陽に狩す」と諱むなど、微妙な筆法で当世を裁いた。訴訟の裁定では人と共有できる言葉は独占しなかったが、春秋の筆削だけは子夏らも一字も加えられなかった。孔子は「後世に丘を知る者も春秋により、丘を罪する者も春秋によるだろう」と述べた。魯の君子左丘明は、弟子たちが各自の解釈で真意を失うことを恐れ、孔子の史記に基づいて詳しく論じ『左氏春秋』を作った。
- (春秋繁露より)孔子が春秋を作ったのは、天地・王公の位や万物・民の欲求を正し、得失を明らかにして賢才を後世に残すためであり、抽象的な言葉より具体的な史実に即して是非を正す方が説得力があるとされる。
春秋經文(隱公元年~哀公十四年「獲麟」)
- 春秋の経文そのものが、隠公元年から哀公十四年の西狩獲麟に至るまで、魯を中心とする二百四十二年間にわたって年月日を追う編年体で丸ごと引かれる。日食・彗星・地震・大水・螽(虫害)などの天変地異、諸侯間の朝聘・会盟・侵伐・滅国、大夫の弑逆・出奔・卒去、婚姻・薨去・葬礼などが、事実を簡潔に記すのみの体裁で年ごとに列記される。獲麟の一句をもって記事は終わる。
續經(哀公十四年~十六年、孔子卒まで)
- 獲麟以後、哀公十六年に孔子が卒するまでの記事も続けて引かれる。この部分は本来の春秋の経文ではなく、弟子たちが師の死を書き留めるために付け加えた「続経」であるとされる。
杜預『春秋左氏傳序』
- (杜氏左傳序より)晋の杜預による序文が引かれる。「春秋」の名の由来と周代の史官制度を説き、周室の衰えとともに諸国の記録が乱れたため、孔子が魯の旧史をもとにその文を考証し、教えのために意味のある箇所は正し、それ以外は旧史のまま用いたと述べる。左丘明は孔子から経を受け、経文を先取り・後受け・依拠・交錯させる形で伝を作った。杜預はさらに、経文の裦貶の表し方に「微而顕(言外に義を含む)」「志而晦(簡約な記述に例を示す)」「婉而成章(婉曲に大義を示す)」「尽而不汙(事実をそのまま記す)」「懲悪而勧善(悪を懲らしめ善を勧める)」の五体があると分析し、公羊伝・穀梁伝より左氏伝に基づいて経を解釈すべきだとする自説を述べる。
編者按
- (編者按)杜預の序に続けて、春秋が獲麟で筆を絶ったとする説(公羊伝)と孔子の死まで記すとする説(左氏伝)のいずれが実情に適うかを論じ、獲麟に感じて筆を起こしたのであれば記事も獲麟で終わるのが実情に近いとし、反袂拭面・吾道窮まれりのくだりまでを孔子自身の言葉として鵜呑みにする説は取らないとの見解を示す。
- (編者按)獲麟の場面に付された割注には、麟の口から三巻の図讖が出て漢の劉季(劉邦)の興起を予言したとする琴操の異伝や、易乾鑿度・春秋演孔図・春秋説題辞・春秋握誠図など緯書に見える様々な祥瑞・予言譚が引かれるが、いずれも荒唐無稽な緯書の妄誕であると注記される。
六経の教え
- (説苑・史記・礼記より)孔子は、夏殷周それぞれの徳が衰えて次の代の徳が興ったように、春秋が作られて初めて人々は周道の衰えを悟ったのだと述べた。六芸(礼楽書詩易春秋)はそれぞれ人を節し・和を発し・事を導き・意を達し・神化し・義を導くものであるとし、それぞれの教えが行き過ぎた場合の弊(詩の失は愚、書の失は誣、楽の失は奢、易の失は賊、礼の失は煩、春秋の失は乱)も併せて説かれる。
素王としての孔子
- (家語より)斉の太史子与が孔子に会い、その道の深さに感嘆して立ち去った後、南宮敬叔に「孔子は明王に遇わなかったが、その道徳は後世に垂れる宝である」と語った。子貢がこれを伝えると、孔子は「乱れたるを治め、滞れるを起こすのはただ我が志のみ、天が何ぞこれに与ろうか」と謙遜して答えた。