繹史陳氏、斉を専らにする(陳佗の乱)(陳氏專齊(陳佗之亂附))
陳佗の乱
- (左傳より)陳桓公は鄭との和睦を拒み続け、五父の諫言も聞かなかったため、君子は「悪を長じれば必ず身に及ぶ」と評した(隠公六・七年)。
- 桓公の病中に弟の佗(文公の子)が太子免を殺して代わって立ったため国は乱れ、諸侯への訃報が二度に及ぶ異例の事態となった(桓公五年)。
- (詩・墓門より)陳佗の不徳を刺る詩とされる。
- (穀梁・公羊傳より)陳佗は蔡に淫し、蔡人に殺された。匹夫の行いをした君として「陳侯」ではなく「陳佗」と貶めて記された。
- (史記より)佗(厲公)の後、桓公の太子免の弟三人(躍・林・杵臼)が蔡人と結んで厲公を殺し、躍(利公)・林(荘公)・杵臼(宣公)と相次いで立った。
- (詩・防有鵲巢、月出より)宣公が讒言を信じたことを憂う詩、好色を刺る詩を引く。
陳完(敬仲)の斉への出奔
- (左傳より)陳の太子御寇が殺された乱に際し、公子完(敬仲)は斉に出奔。桓公は卿位を勧めたが敬仲は身の程を弁え工正の職に留まった。酒宴でも節度を守り、「酒は礼を成すためのもの、淫するべからず」と辞退した。
- 敬仲誕生の際の占い(鳳凰の卦、「五世にして昌え、八世の後は並ぶ者なし」)を記し、後に陳(田)氏が斉に取って代わる予兆として位置づける。
田氏(陳氏)の台頭
- (史記より)敬仲の子孫は田氏を名乗り、田桓子無宇の代に斉荘公に寵愛され力を伸ばした。
- 昭公三年、晏子と叔向の対話で、斉の量制(豆・区・釜・鍾)が公室では薄く陳氏では厚く民に施されており、「民は陳氏に心を寄せ、流水のように帰する」と晏子は憂慮を語った。叔向もまた晉の公室の衰退を語り、両国とも「季世」(末世)であると認め合った。
- 晏子の邸宅をめぐる景公との問答(市に近い不便な家を敢えて選ぶ話、履(安価)と踊(義足、刑罰の多さで高価)の対比で刑罰の過多を諷諫した話)も収める。
欒・高氏の乱と陳・鮑氏の勝利
- 昭公八年、斉の子旗(欒施)をめぐる内紛、陳桓子と鮑氏の駆け引きを経て、昭公十年、陳・鮑両氏が欒・高氏を稷の戦いで破り、その財産を分配した。晏子は桓子に「譲ることこそ美徳」と説き、桓子は多くを公に返上し、また窮乏者に分け与えて名声を高めた。
- 昭子(叔孫)は「忠を尽くしても子孫がそれを継げねば罪に及ぶ」と高彊の没落を評した。
陳氏の厚施と晏子の予言
- 昭公二十六年、路寝で景公と晏子が語り、晏子は「陳氏は公より薄く取り民に厚く施すため、民は陳氏に帰服している。礼によってこれを止めねば、国はいずれ陳氏のものとなろう」と明言した。景公は礼の重要性を悟ったと記す。
- 別伝(韓非子)には、晏子が景公に「民を恵め」とだけ助言した結果、公子尾・公子夏(景公の弟)との民心争いに勝つよう仕向けた逸話、田成子(陳恒)が小斗で貸し大斗で取り立てて民心を得た逸話(「謳乎其已乎、田成子に帰せん」の童謡)を引く。
- 孔叢子には、孔子が「政令は君主の手綱、すでに失われて久しい斉は田氏のものとなろう」と予言した話も収める。
景公の後継争いと晏子の諫言
- 景公が幼い荼(嬖妾の子)を立てようと望んだ際、晏子は「賤をもって貴に代え、幼を立てて長を廃するのは乱の本」と諫めたが聞き入れられず、後に田氏が荼・陽生・簡公と相次いで君を弑し、ついに斉を奪う結果となった。
荼の擁立と陳乞の謀略
- 景公没後、国恵子・高昭子が幼君荼を立て、公子たちを追放した(哀公五年)。
- 陳乞(陳僖子)は高・国氏に取り入るふりをして大夫たちを煽り、共に高・国氏を攻めさせてこれを追放(哀公六年)。次いで魯にいた公子陽生を密かに斉へ呼び戻し、大夫たちを策略で従わせて陽生を立てた(悼公)。荼は殺され、駘の地に葬られた。
- 公羊傳は、陳乞が陽生に「正でない君(荼)を立てれば必ず正しい者(陽生)を殺すことになる、だから逃げよ」と説いた経緯や、大布の袋に陽生を隠して大夫たちに見せ、拝跪させて主君と認めさせた計略を詳しく記す。
悼公・簡公の弑逆
- 悼公も哀公十年、斉人により弑され、呉が哭礼を行った。
- 哀公十四年、簡公の代になると、闞止(子我)と陳成子(陳恒)の対立が激化し、陳氏一族が公宮を襲い、闞止を殺害、簡公を捕らえて舒州で弑した(甲午の変)。諸御鞅がかつて両者の対立を予見し、簡公に一方を退けるよう進言していたが用いられなかった。
- 孔子はこの弑逆を聞き三日斎戒して魯に討伐を請うたが、季孫らに用いられなかった。
節義の逸話
- 陳恒(田常)に脅されても屈しなかった子淵棲の話(新序)、盟いを拒めば親を殺されるが従えば君を裏切ることになるという板挟みの中で盟いに応じつつ自ら剣に伏して死んだ石他の話(韓詩外伝)。
- 鴟夷子皮(范蠡の異名とも)が陳成子に仕えた際の「順・諂・忠・乱・諫・諍・輔・弼」の区別を説いた進言(説苑)。
編者按
- 陳完(敬仲)が斉に奔った当時は桓公の覇業が盛んであったが、簒奪の兆しはすでにこの頃から萌していた。敬仲は工正の職に甘んじ、その子孫も長く目立たなかったが、文子湏無の代に崔慶の乱に染まらず、桓子の代に欒・高氏の乱で功を挙げて以降、陳氏は次第に力を強めた。景公は在位が長く、しかも田猟や繁刑を好み、大権を自ら掌握できないまま陳氏の民心収攬を許した。後継を巡っても長を廃し幼を立てようとして大夫の反発を招き、その死後わずか九年の間に荼・悼公・簡公と三代の君主が相次いで弑される事態となった。この禍根はひとえに景公の失政にある。晏子の「礼を以て国を治む」との諫言も孔子の礼教の説も、景公はこれを善しとしながら実行に移せず、身の没後にたちまち禍を招いた。簡公弑逆の際、孔子は沐浴して討伐を請うたが叶わず、春秋はこれを大書して記した。春秋の筆が乱臣賊子への戒めとして起こされ、またその戒めが行われなかったがゆえに書かれ続けたことは、まことに嘆かわしい。