繹史晋、諸侯を失う(晉失諸侯)

把(杞)をめぐる晉の対応

  • (左傳より)晉悼夫人(把出身)のため晉は把の城普請に諸侯を動員し(襄公二十九年)、把の田を扱う際も晉悼夫人の恨みを恐れ十分な配慮をした。女叔侯は「魯を痩せさせ把を肥やすいわれはない」と論じ、晉悼夫人ではなく先君の意志を重んじるべきと諫めた。
  • 絳県の老人の年齢を史官が算術で割り出す逸話(甲子の周期計算)を収め、趙孟(趙武)が非礼を詫びて老人を厚遇した。季武子は「晉には賢臣が揃い侮れない」と評した。

趙孟(文子)の死の予言

  • (左傳より)穆叔は趙孟の言動が老いた態のように弱々しいことから「趙孟は長くない」と予言し、実際に趙文子は間もなく没した(襄公三十・三十一年)。天子の使者劉定公も同様の懸念を語る。
  • 晉侯の疾病を鄭の子産が診断し、実沈・臺駘の故事や内官(同姓婚)の弊害を説き、晉侯の病因を的確に言い当てた(昭公元年)。秦の医和も「近女室の疾」と診断し、良臣(趙孟)が久しからず死ぬだろうと予言、蠱の字義から病理を論じた。

趙文子(武)の人物像

  • (礼記・国語より)新築の室を「歌うも哭くも一族が集うも全うできる」と喜んだ逸話、質素を旨とし僭越な装飾を止めさせた逸話、九原(墓地)で叔向と「誰と共に帰るか」を論じ、陽子(廉直だが身を全うできず)・舅犯(利を先んじ仁足らず)より随武子(君を利し身を保ち友を裏切らぬ人物)を評価した問答。
  • 私心なく人材を挙げ、死後も子に恩恵を及ぼさなかった清廉さを称える逸話(韓非子・新序に類話)。

少姜の死と晉の求婚

  • 晉侯の寵姫少姜の死をめぐる外交儀礼(斉との縁組・弔問の作法)が細かく記され、張趯は「晉はまもなく諸侯を失うだろう」と予見した(昭公二・三年)。斉は晏嬰を使者に立てて継室を求め、韓宣子はこれを受けた。

石言・虒祁の宮

  • 晉の魏榆で石が言葉を発したとされ、師曠は「土木を興し民力を尽くした結果、怨嗟が物に及んだ」と解釈した。晉侯が虒祁の宮を築くと、叔向は「諸侯は必ず叛き君に咎めがある」と予言した(昭公八年)。

師曠と平公の問答集

  • 師曠は音楽・政治・老いと学びなど多岐にわたり平公を諫めた。新声(濮水の亡国の音)を聞きたがる平公を諫めたが強いて聴かせると、清角の音により大風雨と旱魃が起こり、平公は瘙病を患った(韓非子・国語)。
  • 「老いて学ぶも遅くない、燭を灯すようなもの」との比喩(説苑)、「人君の道は清浄無為、博愛任賢」との教え、「五つの黙々(隠れた弊害)」を説く新序の話、太師としての諫言に琴を投げつけた逸話(韓非子・淮南子で両者の非を論じる)などを収める。
  • その他、鴳(うずら)を殺せなかった小臣への怒りを叔向が諫めた話、宝台の火災を晏子(公子晏子)が却って祝った話、弓工の妻が弓の性能を弁明した話(列女伝、繰り返しの類話)、龍と偽った駮馬・凶鳥の兆しを師曠が正しく解いた話、平公の死を予言した蒺藜の逸話などを収める。

晉侯の疾病と鬼神

  • 晉侯が黄熊の夢を見て患った際、子産は「堯が鯀を殺しその神が黄熊となった故事」を説き、韓宣子は夏郊を祀り晉侯は快方に向かった(左傳・国語)。

平丘の会と子産の争承

  • (左傳より)晉が虒祁の宮を成した頃には諸侯の心はすでに離れていた。莒・邾の訴えを機に晉は諸侯を平丘に集めて盟を行い(昭公十三年)、子産は貢納の軽重を巡って「鄭は男爵の地位で公侯並みの重い貢を課されるのは不当」と力説し、日中から夕暮れまで争って認めさせた。
  • 魯の季孫意如がこの会で捕らえられる事件が起こり、子服恵伯・叔孫らの弁明を経て、最終的に韓宣子・叔向の判断で釈放された。仲尼はこの一連の子産の交渉を「国の基を築くに足る」と評価した。

邢侯の獄

  • 邢侯と雍子が田地を争い、叔魚(叔向の弟)が賄賂を受けて雍子に理を認めたため、邢侯が怒って叔魚と雍子を朝廷で殺した事件。叔向は三者の罪を公平に裁き、仲尼は「親族であっても隠さず正しく裁いた叔向」を「古の遺直」と称えた(昭公十四年)。

晉の威信低下と諸侯の離反

  • 晉の使者が蔡・衛・鄭などへの対応を誤り(貨を求めて拒まれる、非礼な盟いの強要など)、次々に諸侯の離反を招いた経緯を年代順に記す(定公四〜十七年)。宋の楽祁が晉に抑留された事件、渉佗・成何の非礼による衛の離反、趙鞅らによる出兵記録なども収める。

編者按

  • 春秋において諸侯が把(杞)のために動いたことは二度あり、斉桓公による縁陵築城は公の心から出た義挙だったが、晉平公による把の築城は夫人の私情のために十一国の君卿を煩わせたものであった。晉の覇業はこの頃から次第に衰え、恤民の政は失われ、春には遊興のための台を築き、黄熊の祟りや虫害の兆しが相次いだ。昭公の代に至り、厥憖の会・平丘の盟いで諸侯を集めたが、六年の在位で振るうことなく終わった。虒祁の宮の造営を機に諸侯の離心はいよいよ明らかとなり、魯の大夫を捕らえたことで晉の覇道は地に堕ちた。晉の失伯の要因は、外に楚・呉という強敵を抑えられなかったこと、内に大夫の専横と諸国への不義理が重なったことにある。趙鞅・韓不信ら六卿が各々私利を求めて宗国を弱めたことが、晉の覇権衰退の根本原因であったと言えよう。