繹史呉、上国に通じる(季札譲立を付す)(呉通上國(季札讓立附))
申公巫臣と夏姫(呉と中国が通じる発端)
- (左傳より)楚が陳の夏氏を討った際、荘王・子反はそれぞれ夏姫を娶ろうとしたが、申公巫臣が「淫を貪ることは大罰を招く」「この女は連尹襄老を戦死させ子を弑させ、陳を滅ぼした不祥の人だ」と諫めて二人を思いとどまらせ、夏姫は連尹襄老に嫁がされた。襄老が邲の戦いで戦死しその屍が得られぬ中、巫臣は密かに夏姫に「屍を得るには鄭に帰るべし」と唆し、後に自らも使者を装って鄭へ赴き夏姫を娶って共に晋へ出奔した。楚の子反はこれに激怒し、共王は「巫臣は先君のために謀ったのであり忠であった」として不問に付した。晋は巫臣を邢の大夫とした。
呉の勃興
- (史記より)夀夢の代に呉は初めて王を称し勢力を強めた。太伯の後裔である呉は、周室の分家(虞)とは別に南方の夷蛮の地で独自に発展したことを略述する。
- (左傳より)呉が郯を伐った際、魯の季文子は「中国が振るわず蛮夷にまで侵されるのは、弔う者(救う者)がいないからだ」と嘆いた。楚の子重が申・呂の地を賞田として求めた際、巫臣は「申呂は北方への備えの要地、これを奪えば晋鄭が漢水に迫る」と諫めてこれを阻んだため、子重は巫臣を怨んだ。共王即位後、子重・子反は巫臣の一族(子閻・子蕩・清尹弗忌・黒要ら)を誅殺しその財産を分けた。巫臣は晋から二人に「讒慝を弄び貪欲に人を殺す汝らを、必ず奔命に疲れさせて死なせてやる」との書を送り、みずから呉への使者となることを願い出た。
- (左傳より)巫臣は呉王夀夢のもとで呉を晋と結びつけ、戦車・射御・軍陣の法を教え、楚への叛乱を促した。子(狐庸)を呉の行人とし、呉は楚・巣・徐を伐つようになり、子重・子反は一年に七度も奔命するほど疲弊し、楚に属していた蛮夷はことごとく呉に取られ、呉は急速に強大化して中国と通じるようになった。
呉と中国諸侯の交わり
- (左傳より)晋の士燮が魯に来聘し、呉への対応をめぐる魯との駆け引きが記される。晋・魯・衛が呉と鍾離で初めて会し、呉との通交が本格化した(割注に呉越春秋の異伝:夀夢が魯の成公から周の礼楽を学び感嘆した逸話を付す)。
- (左傳より)楚の子重が呉を伐ち簡の師を興したが、呉軍に迎撃されて楚は多くの精鋭(鄧廖ら)を失い、子重は「得たものより失ったものの方が多い」と国人に咎められ、心疾を発して没した。
- (左傳より)呉子夀夢は晋との会盟に使者を送り、諸侯の好に列することを求め、諸侯もこれに応じて呉と会するようになった。夀夢の没後、魯は周廟で臨んで礼を尽くした。
諸樊・餘祭・餘昧・季札の継承と呉楚の攻防
- (史記より)夀夢には諸樊・餘祭・餘昧・季札の四子があり、夀夢は季札の賢を愛して立てようとしたが、季札は固辞し、長子諸樊が国事を執った。
- (左傳より)呉が楚の喪に乗じて侵攻し、楚の養由基が迎撃したが敗れ、公子党を捕らえられた。諸樊は喪が明けると季札を立てようとしたが、季札は曹の子臧の故事(節を守り国を譲らなかった例)を引いて固辞し、田野に隠れて耕作する道を選んだため、諸樊は季札の擁立を諦めた。
- (左傳より)楚は庸浦の敗戦の報復として呉を攻めたが呉軍の待ち伏せに遭い大敗、以後も呉楚間で一進一退の攻防が続いた。呉子諸樊は楚討伐中、巣の城門を攻めた際、油断を見抜かれた巣の牛臣の矢に当たって没した(榖梁傳・公羊傳に異伝あり)。
- (呉越春秋より)諸樊は死に臨み、弟の餘祭に「必ず国を季札に伝えよ」と命じ、季札を延陵に封じて「延陵季子」と号させた。
餘祭の死と諸兄弟の継承
- (左傳より)呉子餘祭は捕虜にした越人を舟の門衛としたが、その越人に刺殺された(榖梁傳・公羊傳に、賤者を側に近づけたことへの戒めとする論評)。
季札の聘問と観楽
- (左傳より)季札が魯に聘問した際、叔孫穆子と語り「善を好んでも人を選ばねば身を保てまい」と忠告した。周の楽を観る機会を得て、周南・召南、邶・鄘・衛、王、鄭、斉、豳、秦、魏、唐、陳、小雅、大雅、頌の各詩について、その国の徳や将来を的確に評し、舞(象箾南籥・大武・韶濩・大夏・韶箾)についても深い批評を加えた。
- (左傳より)季札はその後、斉に聘して晏嬰に「邑と政を早く返上せよ、さもなくば難を免れぬ」と勧め、晏嬰はこれに従って欒・高氏の乱を免れた。鄭では子産と旧知のように語り合い、縞帯と紵衣を贈答し「鄭の政は驕り、必ず子に及ぶ、礼を慎め」と忠告した。衛では蘧瑗・史狗ら君子の多さを称え、晋への途上、戚で鐘の音を聞き「楽を為すのは徳を伴わねば戮を招く、殯中に楽しむとは」と評して立ち去り、これを聞いた孫文子は終生琴瑟を聴かなかった。晋では趙文子・韓宣子・魏献子に「晋はこの三族に帰するだろう」と予言し、叔向には驕った大夫の多い晋で身を守るよう忠告した。
季子の譲国と専諸の変(公羊傳の伝)
- (公羊傳より)呉は本来「無君無大夫」と記されない国だが、季子の賢によって特別に君と大夫が記される。夀夢の四子(諸樊・餘祭・夷昧・季子)はいずれも季子への継承を望み、兄弟が順に位を継いで最終的に季子に伝える約束を交わした。夷昧の死後、季子が使者として外にいたため、長庶の僚が立ったが、季子が帰国後もこれを君として仕えた。後に闔廬(当時公子光)は「先君が季子に国を伝えなかったのは季子自身の故であり、僚は本来君となる資格がない」として専諸に僚を刺殺させ国を季子に譲ろうとしたが、季子は「お前が我が君を弑した以上、その国を受ければ共に簒奪したことになる。お前が我が兄を殺した以上、私がお前を殺せば骨肉相殺すことになる」として固辞し、終生呉の都に入らなかった。君子はその「受けざる義」と「殺さざる仁」を共に賢とした。
- (穀梁傳より)同様に季子の賢を「使いに出ても賢、賢を尊んでもなお賢」と評する。
季札にまつわる逸話
- (韓詩外傳より)斉に遊んだ際、道に落ちていた金を見つけ、それを拾おうとしなかった牧者の高潔さに感心した逸話。
- (礼記より)季札の長子が斉からの帰途に没し、その葬送の簡素で礼にかなった様を孔子が「呉の習礼者」と称賛した逸話。
- (説苑より)晋に入り、田畝の荒廃・都の新旧の家屋の落差・朝廷での君臣のあり方を見て、その国の「暴・力屈・乱」をたちどころに見抜いた逸話。
- (新序より)西へ聘する途上、徐君が季札の帯びる宝剣を欲しがる様子を無言のうちに見て取り、帰路に徐君が既に没していたにもかかわらず、その心中の約束を違えぬため剣を徐君の墓の樹に掛けて去った(徐人はこれを「延陵季子は故(旧約)を忘れず」と歌った)。
呉の後継と晋への使い
- (左傳より)季札の兄の子孫が相次いで没した後(門・巣で諸樊、越人の手で餘祭)、屈狐庸が晋に聘して趙文子に「延陵季子(季札)は立つか」と問われ、「季子は節を守る者、たとえ国を得る資格があっても立たないだろう。天が啓くとすれば今の嗣君(僚)の子孫であろう」と答えた。
編者按
- 呉の興隆は夀夢に始まる。成公七年に呉が郯を伐ち、同年秋に州来に入るなど急速に台頭した。晋との会は鍾離に始まり、以後厲公・悼公の代を通じて諸侯が呉に赴くようになった。太伯以来、周礼を奉じてきた呉は本来「蛮」として斥けられるべきところ、晋がしきりに通交を図ったのは、楚を牽制するためであった。斉が離反し秦が楚に与する中、楚の脅威の下にあった晋は、楚の後背にある呉と結ぶことで、楚が動けば呉がその背後を撹乱するという戦略上の要となった。事実、呉が動くたびに楚は疲弊し、子重も鄧廖の敗戦以来、呉の脅威に阻まれて北方を顧みる余裕を失った。晋の悼公が三度出兵しても楚が争えなかったのは、まさにこの遠交近攻の効果である。呉には季札という賢公子があり、再三君位を辞して兄弟に譲り、公侯の使者として上国を歴訪して礼楽に通じ、識見の高さで諸国の卿大夫と交わりを結んだ。三君が相次いで位を譲ろうとしても季札は義によってこれを固辞し、その徳によって春秋は呉を中国の列に進めて記すに至った。その後も呉は晋との通交を絶やさず、二代後の闔廬の代に至って楚を破り郢に入るという、姫姓諸国の雪辱を果たす快挙を成し遂げることになる。