繹史魯の柳下恵の賢(魯柳下惠之賢)

  • 履歴: 魯の大夫展禽(柳下は食邑の名、恵は諡)。三たび黜けられても魯を去らず、下位の官にとどまり続けた人物。春秋魯僖公~文公期(前7世紀頃)の人。

斉軍を弁舌で退ける

  • (左傳より)斉の孝公が魯の北鄙を攻めた際、展喜が魯君の命で斉侯に対応した。展喜は展禽(柳下恵)から授かった弁を用い、周公・太公以来の盟約と、桓公が旧職を守ってきた故事を説いて斉侯を退かせた。
  • (國語より)同じ出来事の異伝。臧文仲が病と称して斉に弁明しようとし、展禽に問うたところ、展禽は言葉だけで大国の怒りを解くのは難しいと答えつつ、乙喜を遣わして周先君の盟約(成王が周文公・太公に土地を賜い子孫相害せずと誓わせた故事)を説かせ、斉侯を退かせた。
  • (說苑より)斉が魯を攻めた際、魯君は千乗の君である自ら赴くべきか迷ったが、宰相の勧めで布衣の柳下恵を斉に遣わした。柳下恵は斉侯に「わが君は恐れていない」と告げ、その根拠として先祖同士が周の南門で「後世子孫にして相攻める者あらば刳羊の如し」と誓った故事を語り、斉侯は兵を解いた。
  • (呂氏春秋より)斉が岑鼎を求めた際、魯君は偽の鼎を差し出したが斉侯は信じず、柳下季(柳下恵)の言でなければ受け取らないとした。柳下恵は「己の信を破って君の国を救うことはできない」として偽りを拒み、魯君はやむなく本物の岑鼎を差し出した。
  • (春秋繁露より)魯君が斉討伐の可否を柳下恵に問うと、柳下恵は不可と答え、仁人に伐国の謀を問うこと自体を憂えた。

海鳥の祭祀をめぐる諫言

  • (國語より)海鳥「爰居」が魯の東門外に長くとどまり、臧文仲がこれを国の祭祀として祀らせた。展禽(柳下恵)は、祭祀は民に功徳ある者・国に功のあった聖王や神々を対象とすべきものであり、根拠のない海鳥を祀るのは政治の誤りだと諫め、歴代の聖王や社稷・山川の神など祀典に列すべき対象を列挙した。その年、海に大風が吹き冬は異例に暖かかったため、文仲は自らの過ちを認め、展禽の言葉を記録にとどめさせた。

三黜と妻による誄

  • (列女傳より)柳下恵は魯に仕え三度退けられても去らなかった。妻が「瀆れではないか」と問うと、「困窮する民を見捨てられない、己は己、相手が何をしようと己を汚しはしない」と答えた。死後、門人が誄を作ろうとしたが、妻がその徳を最もよく知るとして自ら誄をつくり、「恵」の諡を定めた。門人はこれに一字も加えられなかった。
  • (割注・風俗通より)柳下恵は道を曲げて人に仕えなかったため三黜されても去らず、孔子はこれを評して「不恭」と言った。
  • (割注・符子より)隣人が「三黜されても憂えないのはなぜか」と問うたのに対し、柳下恵は四季の栄枯に喩え、栄辱もまた自然の理であって心の憂喜ではないと答えた。
  • (割注・淮南子より)柳下恵と盗蹠が同じ飴を見て、それぞれ「老を養うのに使える」「戸を破るのに使える」と用途を異にしたという対比が伝わる。
  • (割注・韓詩外傳より)柳下恵は身命を賭してその信義を貫いたと伝えるが、その事跡は詳らかでない。

「柳下恵には及ばぬ」の譚

  • (家語より)独居の魯人の隣家の未亡人が、暴風雨で家が壊れ助けを求めて来たが、魯人は男女の別を理由に家に入れなかった。婦人が「なぜ柳下恵のようにしないのか」と問うたのに対し、魯人は「柳下恵にできても自分にはできない。自分にできないことを守ることで、柳下恵の善なるあり方を学ぶのだ」と答えた。孔子はこれを聞き、形だけを真似ず至善を目指す姿勢こそ智であると評した。
  • (割注・毛詩傳より)同様の顔叔子の逸話が伝わるが、細部は家語と異なる(編者按: 家語の記述と異なる)。

編者按

  • 魯国では世卿が政を専らにし公室は振るわず、臧孫が賢者を覆い隠したため展禽(柳下恵)は下位に沈み続けた。国境に事あるごとにその弁舌が強敵を退け隣国の信を得たにもかかわらず、魯はついに柳下恵を重用しなかった。柳下恵が三度黜けられたのは彼自身の不幸ではなく、むしろ魯国の不幸であった。