衛成公の出奔と叔武の摂位
- (左伝より)僖公二十八年、衛侯(成公)は楚軍の敗報を聞いて恐れ陳へ出奔し、元咺に弟の叔武を奉じて晉との盟を受けさせた。
- (左伝より)ある者が「叔武が位に就いた」と衛侯に讒言し、衛侯は叔武の子・角を殺させたが、元咺は君命に背かず夷叔(叔武)を奉じて国を守った。晉は衛侯を復位させ、甯武子は宛濮で「居る者・行く者ともに互いを害さぬ」との盟を国人と結んだ。
叔武の横死と元咺の亡命
- (左伝より)衛侯は約定の期日より早く帰国し、沐浴中であった叔武は喜んで髪を振り乱して出迎えたところを公子歂犬に射殺された。衛侯は叔武の無実を知り股に抱いて哭いたが、歂犬を出奔させるにとどめた。元咺は晉へ出奔した。
- (公羊伝より)叔武は国を譲った義人であり、殺されたことは『春秋』が「賢者のために諱む」として明記しないと解説する。事件の経緯(文公が衛侯を逐い叔武を立てた背景、衛侯復位後の疑心)を詳述する。
衛侯と元咺の訴訟
- (左伝より)帰国した衛侯と元咺は晉において訴訟に及び、甯武子が衛侯の輔、鍼荘子が坐(付添人)、士栄が大士(弁護人)を務めたが衛侯が敗訴し、晉は士栄を殺し鍼荘子を刖刑に処した。甯武子は忠であるとして罪を免れた。衛侯は京師に幽閉され、元咺は帰国して公子瑕を立てた。
- (公羊伝・穀梁伝より)「帰之于」という書き方は罪の未確定を示すとし、君臣が訴訟し合うこと自体が礼にもとる異常事態であると論じる。
衛侯の復位と元咺の誅殺
- (左伝より)僖公三十年、晉侯は医者に命じ衛侯を鴆殺させようとしたが、甯俞(甯武子)が医者に賄賂して毒を薄めさせ死を免れた。魯僖公が玉を天王に献じて取りなし、衛侯は釈放された。衛侯は周歂・冶厪に「我を復位させれば卿とする」と約し、両名は元咺と公子適・子儀を殺して衛侯を迎え入れた。
- (公羊伝・穀梁伝より)元咺の「君に事えては君出づれば己入り、君入れば己出づ」という不臣の行いを咎める論と、「罪が定まってから入国した」とする経緯を記す。
- (国語より)温の会で晉人が衛成公を捕らえ周に引き渡した際、周の襄王は「君臣に訴訟なし、元咺が正しくとも君臣が互いに獄を争うのは上下の秩序を失わせる」として晉侯の求める処刑を拒み、衛侯は釈放された。
- (国語より)魯の臧文仲は僖公に「衛君の罪は明らかでなく、五刑の運用も隠すべきでない」と述べ、諸侯の情誼として衛侯の赦免を働きかけるよう勧め、これにより魯の晉への信頼も高まったと記す。
衛の遷都と余波
- (左伝より)僖公三十一年、狄が衛を包囲したため衛は帝丘に遷都した(「三百年」との卜占が伝わる)。成公は夢に康叔から「相(古の祭祀対象)が自分の祭祀を奪っている」と告げられ、甯武子は「その神は衛の祭る筋ではない」として祀りの改定を進言した。
- (左伝より)文公四年、衛の甯武子が魯に来聘した際、公が儀礼を越えて歌を賦しても甯武子はあえて答えず、「旧好を継ぐのみで大礼を僭するに忍びない」と使者を通じて謙譲を示した(後世「甯武子の智」として知られる故事の一端)。
編者按
- 楚と衛の新たな婚姻関係を背景に、晉文公が覇を図って曹衛を侵し楚を誘い出した結果、衛成公は国を離れて艱難を極めたが、叔武の摂位・元咺の忠誠により辛くも社稷を保ったと総括する。
- 叔武は位を譲って難に殉じ、元咺は我が子を犠牲にしてまで社稷を守った忠臣でありながら、疑心に満ちた成公との軋轢から君臣訴訟という異常事態を招いたことを嘆き、天王も「君臣に訴訟なし」と裁定に苦慮したことを述べる。
- 醫による暗殺未遂・賄賂による復位・元咺一族の誅殺と、衛の兄弟・君臣が幾度も相争った顛末を、斉桓公が三亡国を存続させた寛容と対比し、晉文公の覇業がもたらした衛国内の犠牲を批判的に記す一方、甯武子については「先に無道の君に仕え後に有道を全うした」として、国家に有益な賢者の一例として結ぶ。