繹史晋文公の覇業(下・襄公の継覇)(晉文公霸業(下)(襄公繼霸附))
- 履歴: 晉献公の子、重耳(文公)。驪姫の乱を避けて十九年間諸国を放浪した後、秦の後ろ盾で帰国して即位(前636年)。城濮の戦いで楚を破り、践土の会で覇者(侯伯)に策命された。前628年(文公九年)に薨去し、子の襄公が覇業を継いだ。
亡命の遍歴(狄・衛・斉・曹・宋・鄭・楚・秦)
- (史記より)重耳は若くして狐偃・趙衰・咎犯・賈佗・先軫ら賢士五人を従え、驪姫の乱を避けて四十三歳で狄に奔った。
- (左伝・国語より)狄で季隗を娶り、十二年後に発ち、衛では文公に礼遇されず、五鹿では野人に土塊を与えられたが子犯は「土地を賜る瑞兆」と喜んだ。斉では桓公に厚遇され馬を与えられて安住しようとしたが、姜氏と子犯が謀り酔わせて出発させた(醒めた重耳は子犯を戈で追った)。
- (左伝・国語より)曹の共公は重耳の駢脅(あばら骨が一枚に連なる異相)を見ようとしたが、僖負羈の妻の勧めで負羈は密かに食を贈った。宋襄公は馬二十乗を贈った。鄭文公は礼を失い、叔詹は「天が啓く三つの兆し(同姓の繁栄・天の靖めざる患難・賢臣の随従)」を挙げて礼遇を勧めたが聞かれなかった。
- (左伝・国語より)楚成王は重耳を諸侯の礼で饗し、「もし晉に帰れたら何で報いるか」と問うと、重耳は「もし両軍相まみえれば三舍(九十里)を退く」と答えた。子玉は殺害を勧めたが成王は「天が興そうとする者は誰も廃せぬ」として送り出した。
- (左伝・国語より)秦に至り穆公は女五人(懐嬴を含む)を娶らせた。懐嬴が水をかけられ怒った際、重耳は自ら服を改め謝った。宴で子犯に代え趙衰(子餘)を進行役とし、河水・六月の詩を賦して秦の援助への謝意を示した。
- (符子・淮南子より)重耳が蜘蛛の巣を見て人の知恵に思いを致した寓話、曹での捕魚の逸話などの異聞も付記される。
- (国語より)出発に際し筮を立て「屯の豫、皆八」の卦を得、司空季子は「元亨利貞、諸侯を建つるに利あり」と晉国復帰を予言した。
秦の後ろ盾での帰国と政変の平定
- (詩「渭陽」より)恵公薨去(太子圉=懐公が継承)の折、秦の康公(穆公の子)が母(重耳の姉)を思って舅(重耳)を見送った詩とされる。
- (左伝より)僖公二十四年、秦伯は重耳を送り、黄河を渡る際、子犯は「臣が過ちを重ねたのは君もご存知のはず、これにて去らせて頂きたい」と璧を差し出したが、重耳は「舅氏と同心せぬなら白水に誓う」として璧を河に投じた。
- (左伝・国語より)晉軍は令狐・桑泉・臼衰を取り、廬柳・郇で秦晉の大夫が盟約。重耳は晉師に入り、曲沃を経て武宮に朝し、高梁で懐公を殺させた。
- (左伝より)呂甥・郤芮は身の危険を感じ公宮を焼いて文公を弑そうと謀ったが、寺人披(伯楚)が「蒲人狄人、我に何かあらんや」と旧怨を越えて密告し、文公は王城に難を避けて発覚、呂甥・郤芮は河上で秦伯に誘殺された。
- (左伝より)文公は夫人嬴氏を迎え、秦の衛兵三千を「紀綱の僕」として受け入れた。頭須(守蔵の豎)が「沐すれば心覆る」との理で謁見を求め赦された逸話、里鳧須が晉国の民心安定に功があったとする韓詩外伝の逸話を付す。
従亡の臣への論功行賞と介子推
- (左伝より)介之推は「天が晉に主を立てたのを人の力と誇るのは天の功を盗むこと」として禄を求めず、母と共に隠れて死んだ。文公は緜上の地を「わが過ちを記し善人を旌彰する」印として与えた。
- (史記・呂氏春秋・新序・説苑・韓非子・淮南子・拾遺記・列仙伝より)龍蛇の歌を宮門に懸けて訴えた逸話、文公が山を焼いて介子推を出そうとして誤って焼死させたとする異伝など、諸書に伝わる異同の多い逸話群を併載する。
- (史記より)従亡の賤臣・壺叔が賞に漏れたことを訴えると、文公は「仁義で導いた者を上賞、行いを助けた者を次賞、戦功のある者をその次とし、単に力を尽くした者は三賞の後に及ぶ」と答え、人々は納得した。
侯伯(覇者)への策命
- (国語より)襄王は大宰・内史興を遣わし晉侯に上卿の礼で命を賜わり、内史興は「晉侯は必ず覇たらん」と評した。
- (左伝より)僖公二十五年、天子は王子虎を遣わし、晉侯に大輅の服・彤弓彤矢・秬鬯・虎賁三百人を賜い「侯伯」に策命し、四方を懐柔し王の悪を糾すよう命じた。
城濮の戦いと践土の会
- (左伝より)僖公二十七~二十八年、楚が宋を包囲し、宋の求めに応じ、先軫・狐偃は「曹衛を伐てば楚は必ず動き宋の囲みは解ける」と献策。趙衰の推薦で郤縠を中軍将とし三軍を編成した。
- (国語・左伝より)文公は「民いまだ義を知らず」として王を周に納れて義を示し、「民いまだ信を知らず」として原を伐って信を示し、「民いまだ礼を知らず」として大蒐(軍事演習)で礼を示した上で民を用いた。
- (左伝より)曹に仮道を拒まれ衛を侵し五鹿を取った。曹を包囲した際、僖負羈の一族のみ免じ、私怨から僖負羈の家を焼いた魏犨・顛頡を処罰し、顛頡は徇(見せしめ)に処された(韓非子は信賞必罰の実例としてこれを詳述する)。
- (左伝より)先軫は「曹衛の田を宋に分ち与えて宋を安んじ、楚を怒らせる」計を献じ、楚の使者・宛春を捕えて楚を挑発した。子玉は激怒し晉軍を追ったが、文公は「楚の恩に報いる」として三舎(九十里)を退いた末、城濮で決戦し楚軍を大破した。
- (説苑・韓非子・呂氏春秋より)戦前、文公が「詐術と信義いずれを優先すべきか」を舅犯・雍季に問い、「詐術は一時の利、信義は百世の利」として雍季を上賞した逸話、夢占いの逸話などを付す。
- (左伝より)戦後、晉軍は三日間楚の兵糧で滞陣し、凱旋して振旅の礼を行い、軍令に背いた祁瞞・舟之僑を処罰して威信を示した。
- (左伝より)冬、温の会で晉侯は天子を河陽に「狩」と称して招致し、諸侯に見えさせた(孔子はこれを「以臣召君、訓とすべからず」と評した)。
践土の会盟と侯伯の冊命
- (左伝より)晉侯は衡雍に至り践土に王宮を作り、諸侯と会盟。天子は王子虎を遣わし諸侯に「王室を奨け互いに害さぬ」ことを誓わせ、王命により晉侯を正式に侯伯に冊命し、大輅・彤弓・秬鬯・虎賁を賜った(史記の引く「文侯之命」は平王が晉文侯仇に与えたものとの混同がある旨、編者は注記する)。
諸侯の服属と鄭・許・秦との関係
- (左伝より)曹の讒言(侯獳の計)を見破って曹伯を復位させた話、諸侯を率いて許を包囲した話を記す。
- (左伝より)僖公三十年、秦晉が鄭を包囲した際、燭之武は夜密かに秦伯を説き「鄭を滅ぼして晉を益するのみで秦の利にならぬ」と論じ、秦は兵を退いて鄭と盟を結んだ。子犯は秦を撃とうとしたが、文公は「人の力に頼りながらこれを害するのは不仁」として退けた。
- (国語・史記より)叔詹が「自らの死をもって鄭を救う」として自刎した逸話も併せ記す。
- (左伝より)僖公三十一年、曹の地を分けて諸侯に班(分配)し、楚とも通交を始めた(晉楚始通)。
文公晩年の逸話(学問・法治・諸家説話)
- (国語より)臼季に読書を学び、郭偃・胥臣と難易・教育論を問答した記事、胥臣が「才質があってこそ教えが活きる」と論じた記事を載せる。
- (史記より)法官・李離が誤審の責めを負い自ら死を選んだ逸話。
- (説苑ほか諸書より)分地・分禄の論、狐豹の皮を憐れんで課税・蓄財の弊を悟った逸話、隧道を登る際に隨会だけが君を扶けなかった問答、西河守に旧怨ある虞子羔を推挙した咎犯の公私分別、猟に迷い漁者・農夫・老人らの諫言を聞き入れた説話群、大蛇に遭遇し自省して徳政を布いた説話などを収める。
- (列子・説苑より)衛討伐を桑の婦の寓話で思いとどまった話。
- (韓非子より)炙に髪が絡んだ料理人の弁明の逸話。
- (淮南子・説苑より)文公の質素な服装と権威、桓文の治世の前柔後剛・前剛後柔の対比論、及び「用賢の効」を説く説苑の大論(晉文公の覇業の盛衰を「積道浸章」から「怠りて浸蹇」まで総括する)。
文公の薨去と襄公の継承
- (左伝より)僖公三十三年、文公薨去。狄が斉・晉を侵し、先軫は箕の戦いで狄を破ったが免冑して戦い戦死した。
- (左伝より)文公元年以降、衛成公の不朝を討ち戚を取った戦い、公(魯文公)が晉に朝せず陽処父に盟を結ばされ恥じた記事、荀林父・士縠らによる沈討伐、郤缺が趙宣子(趙盾)に「衛の地を還付し徳をもって諸侯を懐柔すべき」と説いた記事など、襄公期の対外関係を記す。
編者按
- 唐風「采苓」は讒を信じることを刺る詩であるが、驪姫の讒言により申生が父を思い自死し、重耳・夷吾が国外に逃れた経緯を「讒人の術は巧みで恐るべし」と評する。
- 荀息の白圭の義、重耳の十九年の亡命と秦の後ろ盾による帰国、城濮の一戦による覇業樹立を辿り、斉桓公没後に楚の勢いが増す中、文公が信義を基礎に諸夏を糾合し楚を破ったことを高く評価する。
- 文公の入国後の行い(龍蛇の歌の恩賞、鄭への報復、隧を求めた高慢、天子を河陽に召した専断など)には礼義に悖る面もあったが、春秋は覇者の心を汲んでその事跡を記すとし、斉桓の死後に五子が争って覇業が衰えたのに対し、晉は文公没後も襄公がよく継いで秦を殽で破り、狄を討ち楚に対抗したことを「文襄の烈」として並び称すべきと結ぶ。