桓公と管仲の後継問答
- (韓非子より)ある者が桓公に「一難二難三難」の謎を出し、管仲は「近臣を優遇し賢士を遠ざけること・国を離れて久しく後継を数えぬこと・老いてなお太子を晩く定めること」と解いた。桓公はこれを聞き速やかに太子(孝公)を廟に立てた。
- (管子より)桓公が「覇に続き王たりうるか」を管仲・鮑叔・賓胥無に問うたところ、いずれも「今の斉には周公のような賢臣が育っていない」として否定的な答えを返した。
管仲臨終の人事問答
- (呂氏春秋・管子・史記・韓非子より)管仲が病床で後継の相を問われ、鮑叔牙は「潔癖すぎ人を許さぬ性格で政治向きでない」として退け、隰朋を推した。隰朋も間もなく没した。
- 桓公が易牙・豎刁・衛公子開方の三人について尋ねると、管仲はいずれも「わが子を殺し、わが身を宮刑にし、実の親を顧みない者が、どうして君を愛せようか」として遠ざけるよう強く勧めた。
- (呂氏春秋より)管仲の死後、桓公は一旦三人を追放したが、政務が滞ったため三年後に呼び戻し、翌年病に倒れると三人は宮門を閉ざして反乱を起こし、桓公は餓死同然の最期を遂げ、遺体は六十七日間放置されて蛆が戸外に溢れ出たと伝える。
- (韓非子より)これらの逸話に対し「管仲の助言は君主の統治術(信賞必罰の制度)としては不十分であった」とする反論を併記する。
五公子の争い
- (左伝より)桓公には三夫人と六人の内寵の子(無虧・恵公・孝公・昭公・懿公・公子雍)があり、管仲存命中に孝公を太子と定めていたが、易牙・豎刁が寵姫の子・無虧を擁立し、孝公は宋に出奔した。桓公の遺体は棺に納められるまで長く放置された。
- (左伝より)僖公十八年、宋襄公が諸侯を率いて斉を伐ち無虧を殺し、孝公を擁立した(甗の戦い)。
- (左伝より)孝公の後を継いだ昭公は、その子・舎が叔父の商人(懿公)に弑され、懿公は邴歜・閻職の私怨により申池で弑された。
- (左伝・史記より)懿公の死後、斉人は公子元(恵公)を衛から迎え立てた。恵公の母は少衛姫。
編者按
- 桓公の夫人・寵姫はいずれも正室ではなく、六子はみな庶出であったため、長幼の序が乱れ、管仲没後に五子が相争う内乱を招いたと総括する。
- 昭公・懿公・恵公と続く内訌の連鎖を辿り、桓公が管仲の遺言(易牙・豎刁・開方を遠ざけよ)に従わなかったことが四十年余に及ぶ弑逆・簒奪の禍根であったと結び、『周書』の「美男は舌を破り美女は老を破る」の語を引いて寵愛の弊を戒める。