繹史宋襄公、覇を図る(宋襄公圗霸)

  • 履歴: 宋の桓公の太子・兹父(後の襄公)。父の病時、庶兄の目夷(子魚)に位を譲ろうとしたが目夷は固辞し、兹父が即位した。目夷を左師として仁政を敷いたが、覇を図って楚と争い泓の戦いに敗れ、傷がもとで僖公二十三年(前637年頃)に薨去した。

即位と目夷の輔佐

  • (左伝・説苑より)兹父は仁を重んじる目夷に位を譲ろうとしたが、目夷は「兄が立ち弟が下にあるのが義」として固辞し出奔したため、兹父が襄公として即位した。目夷を左師とし、宋はよく治まった。
  • (詩「河広」より)襄公の母が衛に去った後の思慕を詠んだ詩とされる。
  • (礼記より)襄公が夫人を葬るに明器のはずの醯醢の甕を実際に満たしたことを曽子が非礼と評した逸話。

諸侯との会盟と専断

  • (左伝より)僖公十九年、宋は鄫子を睢の社の祭で犠牲として用いようとし、司馬子魚は「人を犠牲にしてどうして神が享けようか」と諫めた。宋はまた曹を包囲したが、子魚は「文王は徳を修めてから再度討った」と徳治を勧めた。
  • (左伝より)襄公は鹿上の盟で楚に諸侯への影響力を求めたが、公子目夷は「小国が盟を争うのは禍のもと」と警告した。盂の会で襄公は楚に捕らえられ、薄の会でようやく釈放された。
  • (公羊伝より)襄公が兵車を伴わず乗車の会に赴こうとした際、目夷が反対したが聞かず、結果楚に捕らえられた顛末を詳述する。目夷は国を守り抜き、楚も「宋には既に君あり」として襄公を殺す意味を失い釈放した。

泓の戦いと敗死

  • (左伝より)僖公二十二年、宋は鄭を伐ち、楚は鄭を救援。泓水で対陣した際、司馬子魚は「敵が渡河し終わらぬ間、また陣を整える前に撃つべき」と進言したが、襄公は「君子は人の困難に乗じない、隊列を整えぬ敵は撃たない」として拒み、宋軍は大敗し襄公も傷を負った。
  • (左伝より)国人が襄公を咎めると、襄公は「君子は重ねて傷つけず、白髪の敵は捕らえぬ」と述べたが、子魚は「戦とは敵を殺すためのものであり、その論は服従を勧めるに等しい」と痛烈に批判した。
  • (穀梁伝・公羊伝より)泓の敗戦は雩の会での無理な会盟強要が招いた自業自得であるとし、「信ありて道なければ道とならず」と評する。
  • (史記より)襄公は仁義を修めようとしたが泓で敗れ、大夫正考父はその徳を慕って商頌を作ったとされる(editors注:商頌をこの時の作とするのは異聞とする)。

晩年と薨去

  • (左伝より)楚成王が鄭に贈った戦利品を鄭の夫人が見送った際の非礼、楚王が鄭の二姫を連れ帰った故事など、楚の無礼を記す。
  • (左伝より)僖公二十三年、斉が宋の緡を包囲し、夏、襄公は泓の傷がもとで薨去した(公羊伝・穀梁伝は「民を捨てた君主」として葬儀を記さなかった理由を論じる)。

編者按

  • 宋は斉桓公の覇業に早くから協力し数十年安泰であったが、襄公は斉の衰えに乗じて自ら覇を図り、滕を執え鄫を用い曹を包囲するなど無理を重ねた末、楚に欺かれ泓で大敗したと総括する。
  • 子魚のたびたびの諫言を聞かず剛愎自用であったことを敗因とし、宋が滅びなかったのは僥倖に過ぎず、襄公を「五霸」に数えるのは過分であると結ぶ。