僖公の内政と晩年
- (左伝より)僖公三十三年、斉の国荘子が来聘し礼を全うしたことに臧文仲は「斉に礼あり、君も朝すべし」と述べた。冬、僖公は斉に朝し弔問した帰途、小寝で薨去した(穀梁伝は「小寝での死は正礼にあらず」と評す)。
『詩経』魯頌にみる僖公の徳
- (詩「駉」より)坰野に牧される良馬の群れを詠み、僖公が牧畜を重んじ国を富ませたことを頌える。
- (詩「有駜」より)君臣が朝な夕なに公務に励み、宴を楽しみつつも礼を失わない様を詠む。
- (詩「泮水」より)僖公が学宮(泮宮)を修め、淮夷を服属させた武功と徳治を頌える。
- (詩「閟宮」より)姜嫄・后稷から周公・魯公に至る魯の由来を述べ、僖公が周公の旧領を回復し、宗廟を新たに整えたことを頌える。
- (詩序・朱子説より)これらの詩は季孫行父が周に請うて史克に作らせたとされるが、朱子は「閟宮」のみを僖公の詩と確定し、他は考証し難いとする異説を付記する。
廟制をめぐる論争(躋僖公・逆祀)
- (左伝より)文公二年、僖公の主を作るに時を過ぎたことが非礼とされ、また太廟の合祀で僖公の位を先代の閔公より上に進めた「躋僖公」が逆祀として批判された。宗伯の夏父弗忌は「新しい霊は大きく古い霊は小さい、大を先にするのが順」と主張したが、君子はこれを非礼とした。
- (左伝より)孔子は臧文仲を「不仁三・不知三」と評し、その一つに「逆祀を許した」ことを挙げる。
- (国語より)夏父弗忌が躋祀を強行した経緯を詳述し、展禽(柳下恵)は「宗伯の言に従わず、順に逆らい民を惑わせた」として夏父弗忌に必ず殃があると予言した。
成風の喪と魯頌の意義
- (左伝より)文公四~九年、僖公の母・成風の喪に周王が含・賵を送り、諸侯が弔問した記事を「礼なり」と評価する。
編者按
- 魯頌四篇は本来「頌」でなく「風」の体であるが、臣子が君父を愛しその名を揚げる情から聖人が特に頌に列したとする。
- 僖公は伯禽の法に則り賢を尊び農を重んじ、泮宮を修め牧馬を復し、季孫行父がその徳を頌として周に請うたことを「善継善述」と評する。
- 淮夷を服した功も含め、詩人の頌には多少の溢美があるにせよ、魯が周公以来の勲功により天子に准じて頌を持ちえたことを「聖人の魯に望むところ」として結ぶ。