繹史宣王の中興(宣王中興)

懿王・孝王・夷王・厲王の衰退から、宣王による中興までを、『史記』『漢書』『詩經』『國語』『逸周書』『列女傳』『説苑』『墨子』などから集める。

懿王・孝王・夷王の衰え

  • (史記・漢書より)共王の後を継いだ懿王の代、王室は衰え始め、玁狁(けんいん)の侵攻に苦しんだ民の様子を詩人が「靡室靡家」と歌ったと伝える(『詩經』「采薇」を懿王期の作とする説)。
  • (史記より)懿王の後、孝王・夷王と続き、夷王が堂を下りて諸侯に会う失礼を犯すなど、王室の権威がさらに緩んだ様子が記される。

厲王の暴虐と国人暴動

  • (詩經より)「民勞」「板」「蕩」「桑柔」など、大雅の一連の詩は、厲王の暴政・佞臣重用・民の疲弊を痛烈に批判し、殷の滅亡を鑑として厲王を諌める内容である。
  • (逸周書「芮良夫」より)芮良夫は厲王とその側近に対し、民を害する者は君主自身の敵となると説き、財を貪り諂う臣を退けねば禍が及ぶと繰り返し警告する。
  • (國語より)厲王が榮夷公を寵用し利を専らにしようとした際、芮良夫は「利は天地万物のものであり、独占すれば必ず難を招く」と諌めたが聞き入れられず、榮夷公は卿士となった。厲王は国人の誹謗を憎み衛の巫を使って監視させ、批判する者を殺したため、国人は道で目配せするだけで言葉を交わさなくなった。召公が「民の口を防ぐは川を防ぐより甚だし」と諌めたにもかかわらず、王は聞かず、三年後に国人が反乱を起こして厲王は彘に追放された。
  • (史記より)太子静は召公の家に匿われ、国人がこれを包囲した際、召公は自らの子を身代わりに差し出したと伝えられる。厲王没後、周公・召公による「共和」の政が十四年続いた(別伝に共伯和が摂政したとする説もある)。

宣王の即位と中興の功業

  • (史記より)宣王は召公・周公(二相)に補佐され、文武成康の遺風を修めて政治を立て直し、諸侯が再び周に服したとする。
  • (詩經より)「六月」「采芑」は玁狁・蛮荊への北伐・南征を、「江漢」「常武」は召虎・召穆公による淮夷平定を、「崧高」「烝民」「韓奕」は申伯・仲山甫・韓侯を諸侯に封じ賢者を用いた宣王の治績を称える詩とされる。これらはいずれも「宣王中興」を象徴する詩群として位置づけられる。
  • (琴清英・琴操より)これらの功臣の一人、尹吉甫の子伯奇が継母の讒言により追われ、投身したという悲話が付され、伯奇の作とされる「履霜操」の由来が語られる(別伝では伯奇は殺されず後に真相が明らかになったともする)。

蒐狩・考室・考牧の復古

  • (詩經より)「車攻」「吉日」は宣王が文武の旧制に倣って蒐狩・会同の礼を復興したことを、「斯干」「無羊」は宮室の造営と牧畜の繁栄を、「鴻鴈」は離散した民を安んじ集めたことを、それぞれ歌うとされる。
  • (石鼓文より)宣王の狩猟を刻んだと伝えられる石鼓文十章の概要も引かれ、田車・狩猟・漁労・行軍の様子を古文で記す(成王期の作とする異説も付記)。

大旱と側室の戒め

  • (詩經より)「雲漢」は宣王が大旱に際し天を怖れ身を修めて災いを除こうとした様子を歌うとされる。
  • (列女傳より)宣姜后は宣王が朝寝坊を続けたことを自らの咎として簪珥を外し永巷で罪を待ったといい、これに心を動かされた宣王が政事に励んだことで中興の名を成したと伝える。「庭燎」「鶴鳴」も宣王を戒める詩とされる。

千畝の敗戦と晩年の失策

  • (國語より)宣王が籍田(千畝の親耕の礼)を行わなかったことを虢文公が諌めるが聞かれず、農政の乱れを招いたとする。
  • (詩經・後漢書より)「沔水」は宣王を諌める詩とされ、条戎・奔戎討伐の敗戦、姜氏の戎との千畝の戦いで秦仲が戦死したことなどが記される。
  • (國語より)千畝の敗戦で南国の軍を失った宣王は、太原で民を調査する「料民」を行おうとし、仲山父が「古より民を数えずともその多少は諸官の記録から知り得る」と諌めたが、王は聞かず強行したとする。
  • (詩經より)「祈父」「白駒」「黄鳥」「我行其野」など、晩年の宣王の失政や賢者の隠遁を刺る詩が続く。

寓話に見える宣王の逸話

  • (列子より)公儀伯が力自慢を誇らず名を秘した逸話、梁鴦が虎狼をも馴らした飼育術の秘訣、紀渻子が闘鶏を「木鶏」の境地に至らせた話など、宣王代の寓話的な人物譚が付載される。

杜伯冤死の伝説

  • (説苑・墨子より)宣王は無実の臣・杜伯を誅殺し、友人の左儒は九度諌めても聞き入れられず杜伯とともに死んだ。三年後、杜伯の霊が白馬素車に乗って現れ、猟に出た宣王を弓で射殺したという怪異譚が伝えられる(『國語』にも異伝が引かれる)。

宣王の崩御

  • (史記より)宣王は在位四十六年で崩じ、子の幽王宮涅が立ったとする。

編者按(宣王の治世についての総評)

  • (編者按)懿王以来衰えた王室は、孝王が非子を秦に封じたのを始め、夷王が礼を失い、厲王が榮夷公・衛巫らを用いて暴政に走ったことで国人の反乱を招いたとし、これを「民変の始め」と位置づける。共和の十四年は大臣が善く国を治めたのか、共伯の摂政であったのかは判然としないとしつつ、外難なく内乱も起きなかったのは文武成康の余沢が深かったためだと評する。
  • (編者按)宣王は召公・周公に輔けられて中興を成し、玁狁・蛮荊を討ち申伯・韓侯を封じるなど文武の旧業を復したが、晩年は千畝の籍田を廃し料民を強行し、無実の罪で杜伯を殺すなど、次第に驕りが生じたとする。国家の興りは憂危に始まり、衰えは逸豫(安逸)に始まるとし、宣王の晩節の乱れが幽王の代に周を滅ぼす遠因になったと結ぶ。