繹史穆王、官を命じ刑を訓える(穆王命官訓刑(廵遊并載))
周の穆王の治世について、『史記』『尚書』『列子』『穆天子傳』『國語』『逸周書』などから、即位の経緯・西方巡遊の伝承・訓戒の書・晩年の刑法整備までを集める。
昭王の南征と穆王の即位
- (史記より)昭王の代に王道はやや衰え、昭王は南巡して江上で没したが、周は諱んでこれを喪と報じなかったとする。『竹書紀年』『帝王世紀』『呂氏春秋』などには、荊人が膠で継いだ舟を昭王に献じ、川の中程で舟が崩れて溺死したという異伝が付記される。
- (史記より)昭王の子・満が立って穆王となる。即位時すでに五十歳であったとされ、文武の道の衰えを憂え、伯臩(君牙)・大僕正伯冏を任じて政を立て直したとする。
君牙・伯冏への訓辞
- (書「君牙」より)穆王は君牙にその父祖の忠貞を継ぐよう命じ、大司徒として五典を敷き民の心を正すことを求める。
- (書「冏命」より)穆王は伯冏を大僕正に任じ、側近の臣を厳選して主君を諂わぬ「吉士」を用いるべきこと、僕臣が正しければ君も正しくなるという戒めを述べる。
造父の御術と伝説
- (史記より)造父は穆王に寵愛された御者で、桃林の名馬を献じ、後に徐偃王討伐の際に日に千里を馳せて王を助け、その功により趙城を賜り趙氏の祖となったとする。
- (列子より)造父が師の泰豆氏に三年仕えてようやく御術の奥義を授かった説話、また西方の幻術師「化人」が穆王のもとを訪れ、王が幻術師に導かれて幻の宮殿に遊び、覚めれば元の場所にいたという寓話的な物語が伝えられる。編者はこれを『穆天子傳』とともに「後世の付会」としつつ、悔恨の言葉がないことを理由に一応書き留めるとする。
『穆天子傳』にみる西方巡遊の伝承
- (穆天子傳より)穆王は八頭の駿馬(赤驥・盗驪・白義など)に乗り、造父を御者として北方・西方へと長途の巡遊に出たとされ、日を追って各地の首長(河宗氏・巨蒐氏・剞閭氏など)から馬・牛羊・玉器などの貢献を受け、返礼に黄金・貝帯・錦などを賜る記録が延々と続く。
- (穆天子傳より)河宗の地では璧を沈めて河神を祀り、崑崙の丘に登って黄帝の宮とされる場所を望み、舂山では玉策や瑞獣を得たとされる。西王母の邦に至ると、白圭・玄璧を捧げて謁見し、瑤池のほとりで酒を酌み交わしながら歌を贈答する(西王母「白雲在天」の歌と穆王の返歌)くだりが特に名高い。
- (穆天子傳より)帰途、寵愛する盛姫が病を得て亡くなり、殤祀・哭礼・葬送に至るまでの複雑な儀礼(内史の策命、七萃の士や百官の哭き方の作法、副葬の器物など)が詳細に記され、諡して「哀淑人」と呼んだとする。その後も各地を巡って宗周に帰還し、西征の総里程を「三万五千里」と記す。
- (穆天子傳より)これらの記事について、編者は地名・人名に欠字や不明箇所が多く難読であることを注記しつつ、後世『列子』にも引かれた伝承として併載する。
徐偃王の物語
- (博物志・後漢書・説苑より)徐の君主偃王は仁義を好み、江淮の三十六国を服させるほどの人望を得たが、武備を怠ったため、穆王は造父の御する駿馬で楚(または穆王自身)に命じて一日で徐を討たせ、偃王は民を戦禍から守るためあえて敗れて彭城の山中に逃れたと伝えられる。偃王の善政と武備軽視への評価は史書により筆致が異なる。
祭公謀父の諫言
- (國語より)穆王が犬戎征伐を企てると、祭公謀父は「先王は徳を耀かし兵を観(誇示)せず」と諫め、甸・侯・賓・要・荒の五服にはそれぞれ祭・祀・享・貢・王という異なる義務があり、従わぬ者にはまず徳を修めて招くべきで、みだりに兵を用いるべきでないと説く。穆王は聞き入れず犬戎を討ち、白狼・白鹿を得て帰ったが、これ以降荒服の朝貢は絶えたとする。
- (列子より)この頃、西戎が名剣「錕鋙」と火浣布を献じたという逸話も付記される。
祭公の遺言(周書「祭公」)
- (周書「祭公」より)穆王は重病の祭公を見舞い、国事を託す。祭公は文武の業を継ぎ、大臣を用いて驕らず、嬖愛や小謀に惑わされず、常に中庸をもって万国を治めるよう三公に戒め、王もこれに拝手稽首して応じたとする。
逸周書「史記」にみる興亡の教訓
- (周書「史記」より)穆王は成周において史官戎夫に命じ、歴代の小国・諸侯が滅んだ具体例を列挙させたとされる。信を行わず義を立てぬ国、諂諛を近づけ邪人を用いた国、財貨を偏重した国、厳しいだけで仁のない国、権力を臣下に専らにさせた国など、数十にのぼる亡国の実例(皮氏・華氏・有虞氏・林氏・有巣氏など)を類型ごとに挙げ、国家が亡ぶ様々な兆候を戒めとする。
呂刑にみる刑法の思想
- (書「呂刑」より)穆王は在位百年に及び老いてなお、四方を治めるための刑法を整えるにあたり、まず蚩尤が乱を始め苗民が虐刑を濫用した故事を引き、天が苗民を絶やして重黎に命じ天地の通路を絶たせ、伯夷・禹・稷の三后がそれぞれ礼・治水・農耕で民を治めた故事を述べる。
- (書「呂刑」より)「両造具備し五辞を聴く」「五刑に疑わしきは赦す」「上刑は軽きに適えば下服し、下刑は重きに適えば上服す」など、証拠と情状を重んじ、疑わしきは罰を軽くする慎重な司法の原則を説き、贖罪の額(墨・劓・剕・宮・大辟の各刑に対する鍰の数)を具体的に定める。裁く者の心構えとして「敬んで五刑を用い、三徳を成す」ことを繰り返し説く。
穆王の崩御とその後
- (史記より)諸侯に不和がある際は甫侯(呂侯)が刑法整備を進言したとし、穆王は在位五十五年で崩じ、子の共王繄扈が立ったとする。
- (國語より)共王が涇水のほとりに遊んだ際、密康公が得た三人の美女を献上せずに手元に置いたため、翌年共王は密を滅ぼしたという逸話が付記される。
編者按(穆王の治世についての総評)
- (編者按)周の道は昭王の代から欠け始め、魯では臣が君を弑しても討伐できず王綱は振るわなかったとし、南征不返の凶事を秘した経緯も、後の荊楚の患いの端緒であったとする。穆王はその衰えを憂い君牙・伯冏を用いて政を立て直したものの、造父を御者に八駿を駆って佚遊し、自ら戒めた「憸人を近づけぬ」教えを自ら破ったのではないかと疑問を呈する。
- (編者按)世に伝わる穆王の事跡には誇張が多く、『列子』の寓言や『穆天子傳』の付会は必ずしも信じ難いとしつつも、『左傳』に見える祭公の「祈招の詩」で穆王の心を止めた逸話を引き、冏命を穆王中年の改悔の書、呂刑を晩年の哀矜惻怛の書と位置づけ、乱を戒め過ちを改め慎んで刑を行うに至った穆王を「周の令主」と評して結ぶ。