繹史成王・康王の善政(成康繼治)

周の成王・康王の治世について、『新書』『説苑』『詩經』『史記』『尚書』『後漢書』などから、その治績と関連する詩篇・記録を集める。

成王、粥子に政道を問う

  • (新書より)成王は即位当初、自ら粥子(鬻子)の家を訪ね、興国の道・道の要・治国の道・上下人の違い・富み長寿を得る道について次々と問い、粥子はいずれも「上世の政」を典拠に、君主が善を思い善を聞き善を知れば直ちに実行すべきこと、上に立つ者は敬んで粛み、下に立つ者は恭しく仁であるべきこと、忠信・礼節・道義によって民・士・上を治めるべきことなどを答えたとする。
  • (新書より)聖王が上位にあれば民は兵戦・凍餒・過誅・厲疾から免れる「四死」を避け「四生」を得るとし、賢良を用い不肖を退けることが富み長寿を致す道だと粥子は説く。
  • (説苑より)成王が尹逸(史逸)に問うと、時を守り敬い忠愛をもって令に信をおけば民は上に親しむが、深淵に臨み薄氷を踏むがごとき懼れを常に持つべきだと答え、善政を行わなければ民は讎となる例(夏殷の臣が桀紂を見限った故事)を挙げる。

成王の即位初期を歌う詩

  • (詩經より)「閔予小子」以下の四篇は、若くして即位した成王が父祖の徳を継ぐ重責への戒めと不安を歌ったものとされる。

成王による礼楽の制定

  • (史記より)成王は殷の反乱を平定した後、豊に戻って『周官』を作り、王としての礼楽・度制を興したことで民が和睦し頌の声が興ったとする。
  • (呂氏春秋より)成王の代、殷人が王命に反したため周公がこれを討ち、東夷を追って江南に至り、その徳を称える楽「三象」を作ったとする。

祭祀の詩と周頌の系譜

  • (詩經より)文王・武王・成王を祀る「清廟」「維天之命」「維清」「烈文」「天作」「昊天有成命」「我將」「執競」「振鷺」「有瞽」「潜」「雝」「載見」「絲衣」などの頌詩が、いずれも成王期あるいはそれ以降の宗廟祭祀・禘祭・賓尸の場で用いられたと伝えられ、旧来の毛鄭説では成王・周公の作とされる一方、朱子はこれを疑い、実際には後代(康王・昭王以後)の詩が多く含まれると注記する。

四夷の来朝と祥瑞

  • (史記より)成王が東夷を討伐すると息慎(粛慎)が祝賀に訪れ、王は榮伯に命じて「賄息慎之命」を作らせたが、その篇は現存しないとする。
  • (説苑・韓詩外伝・古今注ほかより)三苗が桑を貫いて一穂に生った不思議を周公が「天下が一つに和する兆し」と占い、三年後に越裳氏が幾重にも通訳を重ねて朝貢に訪れた故事、周公が徳を尽くしてこれを受けた経緯、白雉・黒雉・象牙などの貢物とその輸送に司南車(方角指示車)を用いた逸話が伝えられる。
  • (論衡・説文・述異記より)このほか倭人が鬯草を貢いだこと、鸞鳥や六角牛など瑞祥とされる珍しい生き物が現れたという記録も付記される。

逸周書「王会」にみる周初の朝貢儀礼

  • (周書より)「王会」篇は成周(洛邑)での大朝会の様子を描き、天子の立ち位置・諸侯の並び順・服装の格式を詳細に定めるとともに、東西南北の諸民族(稷慎・良夷・揚州・氐羌・巴人・北方の諸族など)が献じたとされる無数の珍奇な産物・霊獣(鳳鳥・比翼鳥・騊駼など)を列挙する膨大な記録である。原文は地名・物名が錯綜し難解な部分も多いが、周初に四方の異民族が朝貢したという伝承を集成したものとされる。
  • (拾遺記より)成王代に泥離国・旃塗国・燃丘国などが鳳凰の雛や比翼鳥を献じたとする説話も伝わるが、これらは後世の付会・誇張が多く、史実性に乏しいとされる。

詩経にみる封禅と兄弟和合

  • (史記より)武王没後、天下が未だ安んじなかったため封禅の儀は行われず、成王の代に至って周の徳が洽くなり、ようやく封禅にふさわしい治世になったと評される。
  • (詩經より)「常棣(棠棣)」は管叔・蔡叔の兄弟不和を悲しみ兄弟和合を勧める周公の作とされ、「南有嘉魚」「南山有臺」ほか一連の詩(笙のみで歌詞のない「由庚」「由儀」「崇丘」を含む)は、賢者を得て共に楽しむ太平の世を歌うものとされる。「蓼蕭」「湛露」「彤弓」「菁菁者莪」は天子が諸侯を燕饗し功に報いる詩と伝えられる。

太平を寿ぐ詩群

  • (詩經より)「行葦」は周家の忠厚な気風を、「既醉」「鳧鷖」は祭祀の後の慰労と守成の心を、「假樂」は成王の徳を称える詩とされ、朱子はこれらを一連の祭祀・賓尸儀礼にまつわる詩と見る説を示す。「泂酌」「卷阿」は召康公が成王に賢者登用を戒めた詩と伝えられる。

君陳への訓辞と成王の崩御

  • (書「君陳」より)成王は君陳に命じ、周公亡き後の東郊(成周)統治を託し、至治は黍稷の香りではなく明徳の香りにあるとし、寛容と威厳を併せ持って民を治め、私心なく人を用いるよう戒める。
  • (史記より)成王は崩御に際し、太子釗(後の康王)の任に堪えぬことを懼れ、召公・畢公に補佐を命じたとする。

顧命の儀と康王の即位

  • (書「顧命」より)成王臨終に際し、太保奭・芮伯・彤伯・畢公・衛侯・毛公らを召し、文武の教えを守り幼い後継者を助けるよう遺命する。崩御後は、儀式用の几・玉・弓矢・宝器を東西の序に厳格な作法で配置し、太保・太史・太宗が礼服を整えて康王に即位の册命を授け、康王が答拝して同瑁(酒器)を受けるという即位儀礼が細部にわたって描かれる。
  • (書「康王之誥」より)康王は諸侯に対し、文武の政を敬み継ぐ決意を告げ、諸侯もまた先王への忠誠を誓う応答が記される。

康王の治世と晩年の訓戒

  • (史記より)康王は即位後、文武の業を諸侯に布告し、成康の際には天下安寧、刑罰を四十年余り用いずに済んだと伝えられる。
  • (書「畢命」より)康王は畢公に成周東郊の統治を委ね、殷の遺民の風俗(世禄の家が礼を軽んじ奢侈に流れやすいこと)を戒め、善悪を明らかにして風俗を正すよう命じる。
  • (後漢書ほかより)康王が朝を怠り晏起した故事に関わるとされる『詩經』「關雎」の解釈をめぐり、韓詩・魯詩・毛詩で成立時期の説が分かれる旨が付記される。
  • (史記より)康王没し、子の昭王瑕が立ったとする。

編者按(成康の治についての総評)

  • (編者按)成王の初立にあたっては太公・周公・召公・史佚らが師傅保として補佐し、周公の摂政・流言の変・豳風や無逸の書による戒めなど、成王の盛徳は天資の善と大臣の輔弼によるところが大きいとする。四国平定・洛邑の造営を経て礼楽が興り頌声が作られ、周公没後もその法を遵守して太平が続いたと評する。
  • (編者按)成王・召公・畢公が四世にわたり顧命を受けて新君を輔けたことを「父子同心」と称え、成王がその終わりを正し、康王がその始めを正したとする。康王の治世は殷民が教化に服し、成康の際は天下安寧・刑錯四十年に及んだと結ぶ。