出陣の誓いと檄文
- 七月、李淵は四男元吉を太原郡守として留守を任せ、義軍を率いて関中へ向けて出陣する。出陣にあたり白旗を掲げ全軍に誓いの言葉を発する。その内容は、隋の高祖文皇帝(楊堅)の功業を称えつつ、当代の煬帝が暴政・猜疑・浪費・遠征によって天下を荒廃させ、群盗が蜂起する事態を招いたことを厳しく批判し、自らは家門の恩義から已むを得ず義兵を挙げ、後主(煬帝)を廃して代王を立て隋室を輔けるのだと大義名分を示すものであった。檄文は各郡県に布告された。
進軍と軍紀
- 李淵は簡素・寛容な性格で、進軍中も自ら陣営を見回り、兵糧・武具・馬の状態まで確認し、不足があれば部下から融通させても咎めなかった。世子・敦煌公らに対し、天下は功なくして得られるものではないとし、自らも艱難を厭わず率先垂範する姿勢を語った。義軍の指揮は「教」(命令書)による迅速な裁定で行われ、日々千人規模の請願や訴えを的確にさばき、人心を得た。
西河郡の巡撫
- 西河郡において、李淵は高齢者への礼遇や困窮者への救済、有能な者の登用、訴訟の裁定などを丁寧に行い、老人には名誉官位を授けるなど広く民心を得た。自ら筆を執って多数の任官を即決したという。
霍邑攻略戦
- 進軍の途上、離石郡太守が乱兵に殺されるなどの犠牲も出た。霍邑では隋の将軍宋老生が精兵二万で守りを固め、屈突通も河東で呼応する構えを見せていたが、李淵はこれらの将の力量を見切り、動じずに機をうかがった。長雨のため進軍が停滞する中、白衣の老人が霍太山の神託と称して迂回路を勧める逸話があったが、李淵はこれに半信半疑ながら興味深く受け止めた。
- 突厥の援軍到着の報や、滎陽の李密からの連携の申し出(書簡でのやり取り)があり、李淵は李密の誇大な言辞を見切りつつ、あえて謙譲の言葉で応じ、李密を東都方面に釘付けにする策を取った。
- 八月、長雨が止み、李淵は霍邑攻略を決断する。息子たち(建成・世民)の進言を容れ、寡兵で宋老生を挑発しておびき出し、伏兵で退路を断って撃破、宋老生を討ち取り霍邑を陥落させた。戦後、李淵は非情な殺戮を悔い、以後は武力によらず徳をもって人心を得る方針を示し、身分を問わず戦功のあった者に恩賞を与えた。
臨汾・絳郡の平定と関中進出
- 霍邑陥落後、李淵は投降者を寛大に処遇し、道士・隠者にまで官位を与えるなど、広く人材を登用した。過分な官位授与を諫める声もあったが、李淵は民心掌握を優先する考えを崩さなかった。臨汾郡・絳郡(絳城)も次々と平定し、抵抗した通守陳叔達らも赦免して用いた。
- 龍門県では突厥から劉文静らが少数の援軍(兵五百・馬二千)を伴って合流し、李淵はその寡兵ぶりをむしろ喜んだ。汾陰では馮翊の賊帥孫華を招撫し、渡河の準備を進めた。
瑞祥と黄河渡河
- 太原からは「李治萬世」の文字が刻まれた石亀が届けられ、また嘉禾(豊作の瑞祥)も献上されるなど、各地から瑞祥の報告が相次いだ。李淵はこれらを謙虚に受け止めつつも、天命への自負を強めていった。
- 孫華の帰順を受け、王長諧・劉弘基らが黄河を渡り西岸を確保、屈突通配下の桑顕和による夜襲も事前に察知して撃退した。李淵自身も河東城を包囲したが、無理攻めを避け囲みを解き、渡河の機をうかがった。
- 馮翊太守蕭造の帰順、永豊倉の確保など関中方面での帰順が相次ぎ、李淵は黄河を渡って朝邑の長春宮に入る。渡河に際し水位が不足していたが夜のうちに水が増して渡河が可能になったという逸話が記される。関中の士庶が続々と参集し、李淵は彼らを丁重に迎えて任官した。
長安包囲と陥落
- 世子(隴西公)・敦煌公にそれぞれ軍を分けて潼関の防備や涇陽など各県の平定を命じる一方、各地の群小勢力(李神通、李仲文、何潘仁、劉旻ら)も次々と帰順した。長安の代王・留守衛文昇・陰世師らは城門を固く閉ざして抵抗の構えを崩さなかった。
- 冬十月、李淵は灞上に進出し二十余万の大軍で長安を包囲するが、隋室を尊ぶ大義名分を保つため、当初は攻撃を控えた。しかし諸将の進言もあり、包囲を強化し、最終的に十一日(丙辰)未明、諸将が一斉に城壁に取り付き、長安は陥落した。李淵は略奪を厳禁し、府庫・図籍を保護し、民心の安定を図った。
- 陥落後、李淵は先に隋主(煬帝)が自らの祖先の墓を暴いていたことへの報復として、陰世師・骨儀ら抵抗の中心人物のみを処刑し、他は一切問わなかった。長安の人々は歓喜し、華夷を問わず李淵の統治を歓迎した。
代王の即位と改元
- 李淵は漢の劉邦が子嬰を殺さず項羽に先んじられなかった故事を引き、自ら帝位を求めず、代王を立てて隋の正統を保つ道を選んだ。十月、代王が即位(恭帝)し、大赦を行い、年号を大業十三年から義寧元年と改めた。今年の租賦を免除し、子孫継承者には爵位を授けるなどの恩恵も示された。煬帝は太上皇として遠く尊称された。