大唐西域記摩臘婆國

  • 要旨: 摩臘婆国は摩掲陀国と並び称される学問の盛んな国で、慈悲深い戒日王の治績や、高慢な婆羅門が論争に敗れて地獄に堕ちた逸話を伝える。

地理と風俗

  • 周囲六千余里、大都城は大河東南に周囲三十余里、土地は肥沃で麦を多く産するとする。
  • 人々は温和で聡明、言葉が上品で学芸に優れ、五印度で学問の盛んな地として摩臘婆国(西南)と摩掲陀国(東北)が並び称されるとする。
  • 伽藍数百か所、僧徒二百余人が小乗正量部を学び、天祠数百か所に塗灰外道が多いとする。

戒日王(別人)の遺事

  • 六十年前の王・屍羅阿迭多(戒日、羯若鞠阇国の戒日王とは別人)は聡明で慈悲深く、生涯人を傷つけず、象馬にも水を漉して与えるほど徹底した不殺生を実践し、在位五十年間、国中で殺生を禁じたとし、精舎を建てて七仏の像を祀り、毎年無遮大会を催したという治績を記す。

賢愛が邪見を論破した話

  • 大城西北の婆羅門邑の陥没した窪地は、高慢な婆羅門が地獄に堕ちた場所とする。
  • この婆羅門は博識で王や国人に尊敬されていたが、自らを大自在天・那羅延天・仏に並ぶ、あるいは勝る存在と自惚れ、これらの像を自分の椅子の脚に彫らせるほどの慢心を見せたとする。
  • 西印度から来た苾芻・賢愛(跋陀羅縷支)がこれを憂い、論争を挑んで婆羅門を打ち破ったが、王が処罰を命じると賢愛はこれを止めて寛大な処置を求めたとする。
  • 婆羅門は辱めを受けて憤死したのではなく、なおも大乗を誹謗し続けたため、地面が裂けて生きたまま地獄に落ちたという結末を記す。