大唐西域記劫比羅伐窣堵國

  • 要旨: 劫比羅伐窣堵国(旧名迦毘羅衛国)は釈迦の生国であり、太子時代の逸話、出家の経緯、釈迦族虐殺の悲劇など、釈迦の生涯にまつわる多くの遺跡を伝える。

地理と現状

  • 周囲四千余里、多くの城が荒廃し人口は少ないが、土地は肥沃で気候は穏やかとする。
  • 伽藍跡は千余か所に及ぶが、現存するのは宮城側の一伽藍(僧徒三十余人、小乗正量部を学ぶ)のみとし、天祠二か所に異教徒が雑居するとする。

太子時代の伝説

  • 宮城内には浄飯王の正殿、摩耶夫人の寝殿、釈迦菩薩が母胎に宿った場所の跡がそれぞれ伝わるとする(部派により降誕の日付に差異があると注記)。
  • 阿私多仙人が誕生した太子を占い、「在家なら転輪聖王、出家なら仏陀となる」と予言し、自らは老いてその教化に遭えないことを悲しんだという逸話を記す。
  • 城南門の仏塔は、太子と釈迦族の若者たちが力比べをした場所とし、提婆達多が投げ倒した象の死骸を難陀が片付け、太子はさらにこれを城壁の外まで投げ飛ばしたという逸話(「象堕坑」の地名の由来)を記す。
  • 太子妃耶輸陀羅・羅怙羅の像を安置する宮や、太子が学んだ学堂の跡も伝わるとする。

太子の出城

  • 城東南の精舎には、太子が白馬に乗って城を飛び越えた場面を表す像があるとする。
  • 城の四門の外にはそれぞれ老人・病人・死者・沙門の姿を表す精舎があり、太子がこれらを見て世俗を厭う心を起こしたという「四門出遊」の伝承の地とする。

過去二仏の生誕地

  • 城南の故城は、人の寿命が六万歳であった時代に迦羅迦村駄仏が生まれた城とし、父との対面の地、遺身舎利を納めた地にそれぞれ無憂王建立の石柱・仏塔があるとする。
  • その東北の故城は、人の寿命が四万歳であった時代に迦諾迦牟尼仏が生まれた城とし、同様に対面の地・遺身舎利の地が伝わるとする。

太子が瞑想した木陰

  • 城東北の仏塔は、太子が農耕を眺めながら木陰で瞑想し、欲を離れる境地を得た場所とし、日が傾いても木の影が動かなかったことに浄飯王が心打たれたという逸話を記す。

釈迦族虐殺の地

  • 大城西北の数百の仏塔は、毘盧択迦王が釈迦族の九千九百九十万人を虐殺した場所とし、屍が積み重なり血が池となったが、天がこれを憐れんで遺骸を葬らせたと伝える。
  • その南西の四つの小塔は、毘盧択迦王の出自にまつわる因縁(釈迦族が身分の低い女性を偽って勝軍王に嫁がせたことが後の虐殺の遠因になったこと)と、四人の釈迦族の若者が抵抗した後に追放され、それぞれ烏仗那国・梵衍那国・呬摩呾羅国・商弥国の王となったという伝説を記す。

釈迦が悟りを得て帰郷した地

  • 城南の尼拘律樹林の無憂王建立の仏塔は、釈迦が成道後に帰郷し父王に説法した場所とする。
  • 浄飯王が使者を送って帰郷を促し、盛大に出迎えた様子や、釈迦が姨母から金糸の袈裟を受け取った場所、八人の王子と五百人の釈迦族を出家させた場所も伝わるとする。

自在天祠と箭泉

  • 城東門内の仏塔は太子が幼少期に技芸を学んだ場所、門外の自在天祠は幼い太子が参拝した際に石像が起立して迎えたという霊験の地とする。
  • 城南門外の仏塔は太子が釈迦族と技を競い、鉄の太鼓を射た場所とし、その矢が地に達した所から湧いた「箭泉」は病人が沐浴すると治癒すると伝える。

臘伐尼林と釈迦誕生の伝説

  • 箭泉の東北の臘伐尼林(ルンビニー)には釈迦族の沐浴池があり、その北の無憂樹の下が釈迦誕生の地とする(部派により誕生日に差異があると注記)。
  • 誕生後すぐに七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったという伝承や、二龍が現れて冷水と温水で太子を洗い清めたという伝承、帝釈天や四天王が太子を迎えたという伝承を記す。
  • 近くには馬の像を頂く無憂王建立の石柱があり、後に落雷で折れたと伝え、傍らの「油河」は摩耶夫人の産後の沐浴のために天が作った池が変じたものと伝える。