- 要旨: 室羅伐悉底国(旧名舎衛国)は釈迦在世時に多くの説法・教化が行われた地で、給孤独園をはじめとする多数の仏跡と、指鬘(アングリマーラ)の改心、外道による中傷、提婆達多らの地獄堕ちなど数々の逸話を伝える。
地理と現状
- 周囲六千余里、都城は荒廃し境界も定かでないが、宮城跡は周囲二十余里で今も人が住むとする。
- 穀物は豊かで気候は穏やか、風俗は素朴で学問と福徳を好むとする。
- 伽藍は数百あるが多くが荒廃し僧徒は少なく正量部を学び、天祠百か所には多くの異教徒がいるとする。
勝軍王ゆかりの地
- この地はかつて釈迦在世時の勝軍王(波斯匿王)の都であったとし、王殿の跡、勝軍王が釈迦のために建てた大法堂、釈迦の姨母のための尼寺、善施(須達)長者の旧宅の跡がそれぞれ伝わるとする。
指鬘(アングリマーラ)の改心
- 善施長者の宅の傍らの仏塔は、殺人鬼だった鴦窶利摩羅(指鬘)が改心した場所とし、人を殺しては指を集めて首飾りにしていた彼が、師の教えに従い母を殺せば梵天に生まれると信じて母を手にかけようとしたところに釈迦が現れ、これを説いて改心させ、後に阿羅漢果を得たという逸話を記す。
逝多林給孤独園
- 城南の逝多林(祇陀林)は給孤独園と呼ばれ、勝軍王の大臣善施が釈迦のために建てた精舎の跡とし、東門の左右に無憂王建立の二本の石柱があるとする。
- 善施長者が私財を尽くして貧者を救っていたことから「給孤独」と呼ばれるようになったとし、釈迦のために土地を求めた際、太子逝多が戯れに「金を敷き詰めた分だけ売る」と言ったところ、善施が本当に金を敷き詰めたため、太子も感銘を受けて残りの土地を寄進し、両者の名を合わせて「逝多林給孤独園」と呼ばれるようになったという由来を記す。
病比丘を洗った場所
- 給孤独園東北の仏塔は、看病を怠けていたために病に苦しんでいた比丘を釈迦が自ら世話し、治癒させたという逸話の地とする。
舎利弗と目連の神通比べ、仏の遺跡
- 給孤独園西北の仏塔は、目連(没特伽羅子)が神通力を用いても舎利弗の帯を動かせなかったという逸話の地とし、目連が「神通の力は智慧の力に及ばない」と悟ったと記す。
- 傍らの井戸や無憂王建立の仏塔には仏の舎利が納められ、釈迦の経行・説法の跡には目印の木や塔が建てられているとする。
伽藍付近の三つの坑の伝説
- 伽藍の後ろは外道が娼婦を殺して釈迦を陥れようとした場所とし、遺体が発見されて外道が釈迦を誹謗したが、天の声がこれを否定したという逸話を記す。
- 伽藍の東の深い坑は、提婆達多が釈迦を毒殺しようとして地面が裂けて生きたまま地獄に落ちた場所とする。
- その南の坑は瞿伽梨比丘が釈迦を誹謗して生きたまま地獄に落ちた場所、さらに南の坑は戦遮という婆羅門の娘が木鉢を腹に隠して釈迦との不義の子を身ごもったと偽り、帝釈天が化けた鼠がその紐を噛み切って露見し、生きたまま地獄に落ちた場所とする。
- これら三つの坑は季節の大雨でも水が溜まることがないと伝える。
影覆精舎
- 伽藍東の精舎は釈迦が外道と論議した場所とし、隣の天祠との間で、朝は天祠の影が精舎を覆わないが夕方は精舎の影が天祠を覆うという不思議な現象があると記す。
- その東の仏塔は舎利弗が外道六師と対決した場所、さらにその傍らの仏塔は釈迦が毘舎佉母の招待を受けた場所とする。
毘盧択迦王の伝説
- 招待の仏塔の南は、毘盧択迦王が釈迦族討伐の軍を起こした際、釈迦に出会って兵を退いた場所とする。
- 王が枯れ木の下に座る釈迦に理由を尋ねると、釈迦は「宗族は木の枝葉のようなもの、枝葉が危うければ陰りもない」と答え、王はこれに感じて軍を退いたという逸話を記す。
- しかしその後、王は改めて釈迦族を討ち、捕虜とした五百人の釈迦族の女性たちを、侮辱の言葉に怒って手足を切り坑に投げ込んだが、釈迦が説法してこれを慰め、彼女たちは涅槃を得て天に生まれたという顛末を記す。
- さらに毘盧択迦王自身も釈迦の予言通り七日後に火に焼かれて地獄に堕ちたという結末を記す。
得眼林
- 伽藍西北の得眼林は、盗賊五百人が勝軍王に目をえぐられて捨てられた際、釈迦が慈悲により彼らの視力を回復させ、彼らが感激して菩提心を起こし、杖を地に刺したことが根付いたという伝承の地とする。
故城(迦葉波仏ゆかりの地)
- 大城西北の故城は、人の寿命が二万歳であったという遠い過去に迦葉波仏が生まれた城であるとし、無憂王建立の仏塔が父との対面の地、仏の全身舎利を納めた地としてそれぞれ伝わるとする。